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'09 秋休み-7 会津若松・鶴ヶ城

<鶴ヶ城> 
鶴ヶ城は数多くの戦国大名が治め幕末の戊辰戦争で有名なお城は会津若松市のシンボルで、1384年に葦名直盛が造った”東黒川館”が始まりと言われていています。 
文禄2年には蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城し”鶴ヶ城”と呼ばれるようになりました。  
慶長16年の地震で石垣や天守閣に被害が出たので天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築きほぼ現在の姿の鶴ヶ城ができました。 

慶応4年、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発しやがて戦火は会津へと移りましたが、鶴ヶ城はその戦火で消失することはありませんでした。 
しかしながら明治7年に明治政府軍陸軍省の命により取り壊されてしまいました。 

 
その後市民の強い要望により昭和40年に当時の構図や資料をもとに昔の姿そのままに復元されました。 
そして現在、鶴ヶ城内は郷土博物館となっています。 
 
 
<塩蔵の情景> 
鶴ヶ城の天主台内部には「塩蔵」が設けられていました。 
海を持たない会津にとって塩は貴重品であり、越後方面から舟で輸送された塩は籠城時の備えとして蓄えられていました。 
戊辰戦争時、城中城下に貯蔵された塩は約36000俵に達したとされ、その一部にこの塩蔵の塩も含まれていました。 
 
 
<武者走り> 
この石垣は鶴ヶ城の大手門の渡り櫓などへ簡単に”昇り・降り”ができるように造られています。 
V字型に造られており”武者走り」とも呼ばれ鶴ヶ城の石垣の特色の一つです。 
また、地表面での占有面積も少なく済み、石積みについての当時の智恵が窺えます。 
 
 
<飯盛山> 
中央やや右の低い山が飯盛山です。 
戊辰戦争の時、白虎隊士中二番隊がこの地で鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し自刃した地です。 
 
 
<荒城の月碑> 
名曲”荒城の月”が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは土井晩翠氏を招いた昭和21年の音楽祭で明らかになりました。 
この詩碑には晩翠氏直筆による荒城の月1番から4番までの歌詞が記されています。 
 
 
<茶室・麟閣 > 
いまからおよそ400年前、わが国茶道の大成者である千利休は秀吉の怒りに触れ死を命じられました。 
このとき秀吉の怒りが千家一族へ及ぶのを恐れた会津領主蒲生氏郷は利休の子、少庵を会津に匿い千家が復興できるように秀吉に願い出ました。 
その結果、秀吉の怒りが解け千家再興が許され、この氏郷の恩義に報いるべく少庵が建てた茶室が”麟閣”と伝えられています。 
このように”麟閣”は千家再興の地として茶人に知られ、その由をもって他の茶室にはない武者小路家・表千家・裏千家、各家元の扁額が掲げられています。 
 
 
寄付 
外路地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をする場所です。 
 
 
鶴ヶ城の本丸内に建っていた茶室ですが、戊辰戦争後に鶴ヶ城が取壊される時に江戸時代より薬種商を営んでいて、茶人でもあった森川宗久氏が自費にて私邸に移築しました。 
平成2年に鶴ヶ城内へ移築復元されました。 

コメント

ももすけ様☆彡

野口英世記念館で野口英世の素晴らしさを実感しました。
時代劇好きのルッチーには鶴ヶ城や会津武家屋敷をじっくり見ていたら飯盛山方面に出陣する時間がなくなってしまいました(-"-)
当初予定では那須高原まででしたが急に会津に行きたくなって突撃したので・・・
次回は鶴ヶ城や会津武家屋敷にも行ってみてください。
ルも次回は飯盛山に出陣します(^O^)/

バタバタしていてコメントが今頃になってしまいました(^^;
ル殿、いい写真ご馳走様でした♪
暫く素敵な写真を拝めなかったので、寂しかったですよー。
大人な旅っていいなぁwと指をくわえて見させていただきました!
実は春に東北旅行のついでに北関東も攻めていたんです。
「東武ワールドスクウェア」なんか懐かしい・・・と思いながら拝見させていただきんました★
野口英世記念館と鶴ヶ城は時間の都合で行けませんでしたが、さざえ堂と飯盛山にある資料館付近には足を踏み入れました。
今度はゆっくりお寺とお城を見たいなぁ・・・と思いながら帰ってきましたの。ムフフ
ル殿のお写真の空の青さにワクワクしながら、また新しい旅のお話を楽しみにしていますw

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