節分大祭:だるま寺
朝から京都は冷え込んではいますが青空が広がる良いお天気でしたので、だるま寺と呼ばれ親しまれている法輪寺の節分大祭へも行ってきました。

朝から京都は冷え込んではいますが青空が広がる良いお天気でしたので、だるま寺と呼ばれ親しまれている法輪寺の節分大祭へも行ってきました。

今日は2月3日、京都ではどこに行こうかと迷うほどあちこちで節分の様々なイベントが行われています。
こんなに多くの神社やお寺で鬼門封じをしたり鬼を追う行事が盛んなのは、都が京都に遷都された時、よほど如何わしい土地だったんでしょうか。
で、今年は京都人でも余り馴染みの少ない、五條天神社へ行ってきました。
五條天神社では2月3日に参拝すると日本最古といわれている宝船の図が授与されます。
原画サイズはかなり大きく飾る場所に困りそうなので、ミニ色紙を購入しました。

京都の紅葉の名所はどこも観光客で一杯でゆっくり紅葉を眺めたり写真を撮ったりすることはできません。
今日はそんな観光客でごった返す、超有名なお寺の近くにある基本的には一般観光客お断りの由緒あるお寺にお伺いすることができました。

北嵯峨〜鳥居本の紅葉の進み具合を見に行ってきました。
先日の11月3日と比べると随分と色づいてきてます。
今週末ぐらいからが見ごろのような気がします 。

お土居の紅葉を見に行ったのですがまだまだで写真を撮ることもなくお土産だけを買って帰りました。
北野天満宮東門内にある長五郎餅の茶店。お茶と一緒にお餅を食べることができます。

今日の嵯峨鳥居本です。薄曇りの一日でしたが歩くだけで朝が出てくる暖かさでした。
嵯峨鳥居本の歴史は古く400年の伝統を誇る平野屋などの料亭があり愛宕神社の門前町として栄えたところです。
平野屋などの料亭があり愛宕神社の門前町として栄えたところです。

京都府与謝郡伊根町にある”伊根の舟屋”は伊根湾に沿って約230軒が建ち並んでいて、伊根町の代表的な観光地として多くの観光客が訪れます。

またまた、ご無沙汰してました。
年度末で忙殺され、新年度からの新規事業の立ち上げなどで更新も出来ない状態でした・・・。
今年も葵祭の観覧招待券を頂き、行ってきました。

庭の梅も満開となり、ここ数日の春の陽気に誘われて嵐山をのんびりと歩いて野鳥撮影に出かけてきました。
真っ青な空を見上げると、見た目の厳つさに似合わない可愛い声で鳶が”ピーヒョロロ”と鳴きながらゆっくりと天空を旋回しています。
伏見稲荷大社は和銅4年(711)2月初午、稲荷山に大神様がはじめて鎮まられたことを起源としており全国に約4万社あると言われている「おいなりさん」と親しまれている稲荷神社の総本宮で、本殿のある稲荷山全体が信仰の対象となっています。
その伏見稲荷大社には崇敬者が祈りと感謝の念を表すため奥社参道に鳥居が奉納されている「千本鳥居」があります。

京都でえべっさんと言えば京都えびす神社が有名ですが、八坂神社にも蛭子神社があります。

<光悦芸術村>
江戸初期の芸術家・本阿弥光悦ゆかりの鷹峯にある庭園、結婚式場、料亭、ボウリング場その他を備えた巨大レジャー施設。
鷹ガ峰三山を借景に広がる3万5千坪のこの土地は、今も歴史的な伝統の背景と自然美に囲まれ生き続けています。

京都の三大奇祭・牛祭が行われる広隆寺は法隆寺などとともに聖徳太子の七大寺の一つで、山号を蜂岡山と称する真言宗御室派のお寺で蜂岡寺や秦公寺、太秦寺などの別称があります。
<上宮王院>
現在の本堂で本尊は聖徳太子像です。

茅葺住宅で有名な美山町に紅葉を見に行ってきました。
京都御所秋の特別公開に行ってきました。
今回は天皇陛下御即位20年記念ということで例年は公開されることのない皇后宮常御殿や飛香舎、若宮・姫宮御殿、朔平門が特別公開され御即位に関連した展示も行われていました。

聖徳太子の命日である11月22日に太秦・広隆寺で聖徳太子御火焚祭が行われました。
この日は普段は非公開の聖徳太子像が上宮王院太子殿で公開されました(写真撮影禁止)。
少しふっくらした顔に細い目が印象的でした。
また宝物館の秘仏薬師如来像も開扉されます。

国宝釈迦堂如来像で知られる清涼寺は地元では「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれ人々に親しまれています。
広々とした境内は無料(本堂・霊宝館は有料)で散策できます。

京都の隠れた紅葉の名所第二弾です。
今回訪れたのは、京都鷹峰にある吟松寺です。
このお寺、最近はネットで”隠れた紅葉の名所”として紹介されていますが、まだまだ訪れる人は少ないようです。

京都の紅葉も色づいてきたので出かけてきました。
東山方面や嵐山など紅葉の有名な観光地は大変な人出です。渡月橋から天龍寺あたりは通勤ラッシュ並みの混雑でした。
で、出かけた先は観光客はまず来ないけど紅葉がとても綺麗な穴場的なところです。
まずは広沢の池です。
大覚寺から東500mほどのところにある池の周囲1.3kmの大沢の池とともに観月で有名な池で、春は満開の桜が穏やかな風景をかもしだします。

重要文化財である京都府庁旧本館の一般公開(秋)がライトアップのなか前期と後期に分けて開催されています。
春の公開の様子はこちらです。

秋の都大路を飾る京都三大祭の一つ、時代祭が10月22日に行われました。
今年の時代祭では紫式部の小袿が36年ぶりに新調されたそうですが、そのような写真は他のサイトでも紹介されるでしょうから今回はなしです。
今回の写真は行列前ののんびりとしたところや余り目にすることのない神事などを紹介します。
神事は桓武天皇と孝明天皇を祭った鳳輦(ほうれん)と呼ばれる2基の輿の前で行われます。

京都・北野天満宮の五穀豊穣を感謝する農業祭であるずいき祭が10月1日〜5日まで4日間にわたって行われました。

西ノ京の神人により、ずいき神輿という野菜や乾物等で趣向をこらした絢欄華美な神輿が御旅所に奉られ10月4日に巡行します。
屋根はずいき芋で葺いてありお神輿のあらゆりところは穀物や蔬菜・湯葉・麩(ふ)などで飾り付けられています。

建仁寺で開催された桑フォーラムにご招待を受け行ってきました。
建仁寺と桑の関係???
建仁寺を開山したのが栄西禅師で、『喫茶養生記』のなかで日本で初めて桑の効用について説かれたそうです。

講演は建仁寺塔頭である法観寺住職の浅野全雄師による「栄西禅師と桑」という内容でした。
法観寺といってもピント来ない方が多いと思いますが、八坂の塔のあるお寺です。
サスペンスラマの京都殺人案内でよく撮影に利用されている五重塔です。
先日のルのblog、高台寺・燈明会の最後の写真です。
講演の内容で一番印象に残っているのは、「仏教の教えに反して生活するのはよくない」ということです。
今の時代にピッタリのことだと思いました。
下の写真が栄西禅師。
「えいさい」と今まで呼んでいましたが、本当は「ようさい」と呼ぶそうです。
講演のあとは、楽しみにしていた茂山一門の狂言です。
方丈の間で行われたのですが、最前列で鑑賞することができ目の前で見ることができました。
観世会館や大きな舞台で演じられているのとは違い迫力あって楽しかったです。
本日の演目は”鐘の音”(茂山千五郎・茂山千三郎・島田洋海)。
内容は主人に鎌倉に行って“(息子の元服祝いに贈る小金飾の刀の)金の値”を聞いてこいと言いつけられた太郎冠者は、“鐘の音”と聞き間違え確認することなく鎌倉へ赴き、鎌倉の寺を回って鐘を撞き、鐘の音を聞いてまわります。
そして屋敷に戻った太郎冠者は主人にそれぞれの鐘の音の報告を行い、鎌倉で一番大きなお寺の建長寺のがよいと勧めます。
主人に勘違いして違うことを調べてきたことを怒られます。
そこで太郎冠者は、寺々で鐘の音を聞いたことを謡につくって舞い主人の許しをえます。
建長寺の鐘を対いているところです(茂山千五郎 )
太郎冠者をこらしめようとするのを止めています
主人に叱られる太郎冠者
鎌倉の寺の鐘の音を報告する太郎冠者
建仁寺といえばこれ、法堂の天井画・双龍図
潮音庭:小堀泰厳老大師作庭
風神雷神図屏風:俵屋宗達筆(国宝、複製)
衣鉢の間、伯楽:橋本関雪筆
唐子遊戯図:田村月憔筆
右:葦が茂る湖上に五人の唐子が舟から月を眺める風情を表しています。
左:遊び戯れる唐子たちの姿が闊達にあらわされ明るく動きのある絵になっています
最後に清涼軒でお抹茶を頂きました。
昨年からお茶の作法を習っているおかげで、緊張することなく美味しくいただけました。
平安京を完成させた嵯峨天皇の徳を偲ぶ祭礼「嵯峨天皇祭」が梅宮大社で行われ、夜には梅津六斎念仏が奉納されました。
梅津六斎念仏の起源は平安時代にまで遡る芸能六斎で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

<発願・六段>
六斎とは鉦や太鼓を打ちながら念仏を唱え踊る民俗芸能です。


<頼光と土蜘蛛>
大江山の酒呑童子を討った源頼光が土蜘蛛を退治した伝説に由来する演目です。


頼光(右)と土蜘蛛(左)

頼光に土蜘蛛が襲って歌舞伎と同じように千筋の糸をはでに放ちますが、頼光の見事な逆襲で土蜘蛛は一目散に逃げていきます。
<越後さらし>
梅津六斎念仏独特の芸能六斎で烏帽子を被った踊り手が両手に団扇にさらしをつけたもの器用に操っています。
越後獅子を連想させる動きは見ていてとても楽しかったです。

<祇園ばやし>
ひょとこやおかめがでてきてとてもユーモラスでした。
ひょとこは巻物を手にして登場し、その巻物をド〜ンと開けると”大爆笑”!!
そこに書かれていたのは“火の用心”でした。

<獅子と土蜘蛛>
獅子が休憩していると土蜘蛛が足で蹴り、獅子が激怒します。
土蜘蛛は千筋の糸を放ち獅子をがんじがらめにしますが、最後は獅子が土蜘蛛を追い出します。






夕方からは夜店も並び、念仏に続いて盆踊りも行われました。

自宅から自転車で十数分の大覚寺で弘法大師が除災招福を祈念し行われた真言宗の大切な法会”宵弘法”が行われました。

<御影堂(心経前殿)>
大正14年建造 大正天皇即位式場に建てられた饗宴殿を式後賜り移築したもの。
心経殿の前殿であり、内陣正面は心経殿を拝するため開けてある。
内陣左右に嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王など大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた方々の尊像を安置する。外陣は70畳ある 。 (大覚寺サイトより抜粋)
<勅使門>
年に3回だけ開けられるという勅使門。
宵弘法の日はここから入り、そして拝観料は無料です。
北嵯峨高校吹奏楽部の演奏もありました。
スウィングガールズみたいでカッコイイ!! 一度でいいからホラ以外を吹いてみたい(;一_一)

五大堂(本堂)や大沢池のほとりでの”お施餓鬼法要”、大沢池の中央に竹や丸太で組上げられた送り火の祭壇が真っ赤に燃えあがります。
<五大堂(本堂)>
五大堂は江戸時代中期の創建で不動明王を中心とする五大明王を安置している現在の大覚寺の本堂です。
五大堂では万灯会法要や回向の申込み受付が行われます。
灯籠:経木塔婆一体付きで2,000円でした。



本堂(五大堂)で行われた万灯会法要



一つまた一つと大沢池に浮かぶ灯篭と水面に写る炎の風情!

<お施餓鬼の法会>
池の桟橋に設けられた施餓鬼棚(祭壇)の前でお坊さんが塔婆に書かれたご先祖さまの名前を読上げ、ご真言をお唱えしています。

お坊さんが見守る中、松明をかざして船が池の中央の送り火の祭壇に点火するためにでていきます。
大沢ノ池に浮かぶ”嵯峨の送り火”

時折、竹がはじけるパーンという大きな大きな音がする中、燃え盛る送り火の炎が池を明るく照らしだします。
夜空に立上る炎と舞い飛ぶ火の粉はご先祖の霊を送っているようです。
この宵弘法、あまり観光化されておらず、ほとんどが地元の人たちで落ち着いた雰囲気の中で幻想的な雰囲気を味わうことができます。
嵯峨野の夏も地蔵盆と嵯峨野六斎念仏、化野念仏寺の千灯供養を残すだけとなりました。


六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)で8月7日から10日まで”六道まいり”が行われているので行ってきました。


昔は京都の東の地は亡くなった方を埋葬する野辺送りの場所で六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていました。
このお寺の名前にもなっている「六道」って言うのは、仏教でいう「六道輪廻」の世界のことで地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天人道という6つの世界のことを言い、この6つの世界が集まったところが「六道の辻」です。

参詣の順番は
1.境内において高野槙を購入。

2.本堂前でご先祖様の戒名・俗名を水塔婆に書いてもらいます。

3.迎え鐘を撞きます
この鐘は十万億土の果てまで響きこの音でご先祖様を呼ぶそうです。
この迎え鐘を撞くのに長蛇の列、門の外まで延々と続いていました・・・。

4.水塔婆を線香で清めます。


5.地蔵尊宝前において高野槙で水回向の後その場所に納めておきます。

購入した高野槇は自宅に持ち帰ります。
そうすると冥界で鐘の音を聞いたお精霊さんはこの高野槇の穂先を伝わって家に帰ってくるといわれています。
こうして現世にお迎えしたお精霊さんは16日大文字の送り火とともに冥界に戻られます。
そして8月17日に本堂前六道の辻にて全ての水塔婆を納め盂蘭盆会施餓鬼法要が行われます。
五山の送り火(大文字)は観光化されていますが、本当は京都人のお盆の一大イベントといえます。


閻魔堂に安置されている小野篁作と伝わる閻魔大王像(上)と等身大の小野篁像(下)


<熊野観心十界図>
この絵図は間の一生を上部の橋を渡ることにより誕生から死までをあらわし、下部に地獄や極楽が描かれています。

<西福寺>
六道珍皇寺から少し西に行ったところに西福寺があり、西福寺でも精霊迎えが行われていて多くの人がお参りに来られてました。
そしてこの期間(8月7日〜10日まで)は寺宝の地獄絵図をご開張しているのですが、この絵がちょっとすごいんですよ!


<檀林皇后九相図絵>
嵯峨天皇の皇后であった檀林皇后が死後の自分を描かせた絵図で死体が次第に崩れ土に還る様子を9つの段階を追ってとてもリアルに描かれています。
このような絵が何故描かれたかというと、檀林皇后の遺言によると言われています。
自分の死んだ後は葬式をせずに遺骸を野原に捨てよ。
その姿を見れば色欲に捕らわれた者たちを少しは悟らせることができるだろう。
あー、今の政治家や官僚に見せてやりたいです!!

<熊野観心十界図>

<地獄絵>
死について深く思いを馳せながら見入ってしまいました。

<祈祷銭>
一年間、財布の中に入れておき、翌年に交換してもらいます。

以前の西福寺のblogはこちらです>>>


<六波羅蜜寺>
西福寺を少し南に下がったところにある六波羅蜜寺でも迎鐘(おむかえがね)が行われていました。

本堂では16個の灯明を「大」の字の形に並べ祖先の霊を迎えて回向するように飾られていました。

六波羅蜜寺の迎鐘は六道珍皇寺のように並んでいる人もなくすぐに撞くことができました。
この鐘は日本で最初の地下にある大釣鐘だそうです。


<菩提樹の葉と仏塔>
境内では仏塔と菩提樹の葉の形に燈明が並べられ”お迎えの炎の絵”が描かれていました。
これは元はスリランカに古くから伝わる仏教徒の風習で先祖の霊や故人の霊を祭りこの世の平和を願う行事で、日本で行われている万灯会の原形ではないかと言われています。



醍醐寺の万灯会に行ってきました。
醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で世界遺産に登録されていて、豊臣秀吉が秀頼や北政所・淀君と花見行列の宴を催した広大な境内をもつ寺院です。
山号を醍醐山(深雪山)と称し、本尊は薬師如来・聖宝理源大師が開基しました。
万灯会は下伽藍(醍醐)で行われ、この日は駐車場・入山料は無料です。

暗闇の中、ご先祖様の霊を導くための約500個の灯籠の幽玄な灯火に導かれて歩いていきます。
灯りをともすことでご祖先様を供養し生きるものすべてに感謝をします。
金堂では施餓鬼精霊供養法要が行われ午後9時まで金堂と五重塔がライトアップされます。
<金堂:国宝>
豊臣秀吉の命により和歌山県湯浅から移築されたもので主要部は平安末期の様式を完全に残しています。
本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財に指定されています。
(金堂内は撮影禁止)
暗闇の中提灯で輝いている金堂では平安時代から続く幻想的な祈りが行われています。
金堂の前には、ご先祖様供養の灯籠や子供たちが描いたかわいい絵の灯籠が輝いていました。


逆上がりができますように・・・可愛らしいお願い事が書かれています。
スポーツは大好きなルッチーも器械運動だけは大の苦手でした。
鉄棒にマット運動・・・、思い出したくもない・・・(;一_一)

先日の高台寺・燈明会よりも人は少なく暗闇の中時間がゆっくりと流れていきました。
あまり宣伝がされていないので観光化されている様子が少なく地元に密着した行事でした。
<五重塔:国宝>
醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工し951年に完成し、京都府下最古の建造物です。
内部の壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれています。

五重塔の前では有縁無縁の精霊へ捧げられる僧侶の読経が一心に唱えられ、暗闇に厳かに響きわたっていました。
この五重塔、京都には醍醐寺・教王護国寺(東寺)・仁和寺・法観寺(八坂の塔:先日の高台寺駐車場からの写真に写っています)と4つあります。

五重塔の周りを心を静めて歩くとご先祖様の供養になります。
そして五重塔の周りには地元の小中学生が作った灯篭やが飾られていてそこだけが賑やかでした。
そうめんの無料接待が行われていました。
土生姜が入っていてとても美味しかったです!!
夜店ではお参りに使う高野槙やお盆には欠かせないホオズキが売られていました。

桃山文化の香りただよう高台寺で行われている夏の夜間特別拝観・燈明会に行ってきました。
高台寺参道には約900張の燈明会提灯が灯され、また、重要文化財の「開山堂」をはじめとする伽藍や枯山水庭園「方丈」などの名勝庭園もライトアップされ境内全体が幽玄な雰囲気に包まれます。

高台寺は東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にあります。
正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね)が慶長11年開創した寺です。
寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ高台寺と号しました。
造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたといわれています。
しかし寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で国の重要文化財に指定されています。
(パンフレットより抜粋)

<湖月庵>
春や秋の特別拝観ほど有名でないのか、人も少なく、ゆったりとした時間の中のんびりと散策できました。


<高台寺庭園>
開山堂を中心に東の臥龍池、西の偃月池の二庭よりなる池泉回遊式庭園です。
小堀遠州の作で国の史跡、名勝に指定されています。
上の写真:左側のやや高くなっている屋根の所が秀吉遺愛の観月台です。
観月台は檜皮葺きの四本柱の建物で三方に唐破風をつけた屋根の下から観月するための建物です。

<開山堂>
高台寺第一世の住持、三江紹益禅師(1527-1650)を祀る塔所です。
左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安置されており礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の格子天井には秀吉が使った御船の天井が用いられています。
(中は撮影禁止です)

<臥龍池>
今にも吸い込まれてしまうかと感じてしまう鏡のような臥龍池にはライトアップされた青紅葉など周囲の木々が映し出されていました。
紅葉の時期は人・人・人・・・で、すごい混雑で撮影はほぼ不可能ですが、今日はゆったりとした時間が流れていました。

書院では円山応挙の有名な幽霊図や地獄極楽図屏風、幽霊の掛軸などが見られる百鬼夜行展が行われていました(残念ながら撮影禁止!!)
古来日本では生き物と同じく道具にも魂が宿っていて道具を大切にするという意味を込めて描かれたのが百鬼夜行の図です。


表情に愛嬌があって可愛い九十九神。
古くから道具は百年経つと精霊が宿るという云われがあり、九十九年目に精霊が宿る前に捨てられた道具が化け物や妖怪に姿を変えて夜の闇の中を行列する様子が描かれています。

<方丈>


方丈前の庭にはろくろ首や唐傘おばけだけでなく、竹や傘おばけなど高台寺ゆかりのおばけたちの映像が映し出されていました。

門前の塔頭・圓徳院の土塀に映し出されたカラフルでユーモラスな百鬼夜行絵巻の妖怪たち。

ライトアップされた竹林。

<雲居庵>
お抹茶のサービスが行われていました。

<傘亭と時雨亭>

<高台寺天満宮>

駐車場からの八坂の塔と京都タワー。
お寺で夏の夜を涼しく過ごしてみようと出かけましたが、随分と汗をかきました。
燈明会は秀吉の命日である18日まで行われます。

<下鴨神社の楼門>
下鴨神社 の” 御手洗祭 ( みたらしまつり )” は手洗社の夏の土用の祭札で、平安貴族の禊祓いに由来する 「 足つけ神事 」 です(7月24日〜27日)。
土用の丑の日に多くの老若男女が境内の御手洗川に足を浸し、御手洗社までゆっくり歩き、献灯し罪やけがれを祓い無病息災を祈ります。

ライトアップされた下鴨神社は威風堂々として大変美しいです。

ビニール袋に靴を入れ灯明料200円を納め竹串にさしたロウソクを頂き、輪橋をくぐって”みたらしの池”へと冷たい水の中を歩いていきます。

御手洗川は湧き水のためか思ってた以上にとても冷たく、汗が一瞬にしてひくと同時に気持ちが引き締まりました。
水は膝ぐらいまであり結構深かったです。




御手洗池で膝まで冷たい水につかりながら、無病息災を祈ってロウソクを灯します。
ロウソクの灯が水面に揺らめき、並んだ明かりは何と幻想的なも雰囲気でした。

お祈りを済ませ川から上がるとご神水をいただきます。
ご神水をいただくと諸病にかからず延命長寿の霊験が得られるといわれています。
お味は流石、京都盆地の地下水、とても丸くてまろやかな喉越しで一気に飲み干しました。

<足形祈祷木>
足形に名前と年齢を書き、無病息災・健脚祈願をします。
初穂料:200円

“みたらし団子”発祥の地らしく、みたらし団子が奉納されていました。
みたらし団子は糺の森の御手洗池に湧く水の泡・人の体を表しているという説があり、団子が1個と4個に分かれて刺されています。
京都のみたらし団子は甘い蜜が掛けられていますよ!!

参道には夜店や屋台がずらっと並んでいて、いつもは静かな参道も大賑わいです。

御田祭は約600年前から松尾大社にて行なわれている虫除けと五穀豊穣を祈る神事で、神前には野菜が供えられています。
お祭りの主役は地元の下津林・松尾・嵐山の3地区から1人づつ選ばれる12歳前後の植女(うえめ)。



本殿では宮司が祝詞を詠み上げ、謡曲が奉納されます。

色鮮やかな衣装に身を包んだ植女は、社前で宮司から神稲(早稲・中稲・晩稲の3種類)を手渡されます。



神稲を手にした植女は壮夫(父親)の肩に乗り、宮司や楽人の先導により拝殿を3周します。

植女の衣装は紗を張ったカイバリ(内掛け)を着て、花などで飾られた花笠を被り、紅白のちりめんのたすきを掛けています。

植女の額には汗が・・・!
この日の京都は35℃を超える猛暑日でしたから・・・(;一_一)


神饌田で植女から苗を譲り受けの祭壇に。
たすき掛けの男女が神饌田の4隅に苗を植えます。

神官が持っていた杖と竹で田の四隅を叩く虫除けの儀が行われ、一連の神事が終了しました。
(7月20日に行われました)
夏の京都に欠かせない行もである祇園祭の山鉾巡行も今日17日無事に終りました。
Blogへのアップが遅くなりましたが、先日の昼間に見てきました鉾や展示物などです・・・。



<蟷螂山・とうろうやま>
大蟷螂と御所車という珍しい組合せの山です。
“かまきり山”とも呼ばれ屋根の上のからくりを施されたカマキリの羽や鎌が動く唯一のからくり山です。
「蟷螂の斧を以て降車のわだちをふせがんと欲す」を題材にした山で「自分の力をわきまえずに大敵に立ち向かうことで勇敢さを賞した」中国の君子の故事に由来しています。

<カマキリのおみくじ>
ハンドルを回すと、扉が開き玉が出てきます。
カマキリが玉を受け取るという仕掛けになっています。

<放下鉾>

鉾の上から下を眺めたところです。

他の鉾は、鉾に上るためには粽(ちまき)を買うか拝観料が必要ですが放下鉾は無料でした!!

鉾の天井です。

三光丸物語
三光丸--鉾頭が日・月・星の三光が下界を照らすことより、久邇宮多嘉王殿下から命名された稚児人形。
木彫りの放下頭巾を被り、右の肩背に真鍮製の唐扇子、左の肩背に采配をさしています。
もともとは生稚児だったのですが昭和4年より人形に変わりました。
巡行の折には稚児と同じように、鉾の上で稚児舞ができるようにつくられています。


放下鉾の新下水引は、華厳宗祖師絵伝をした絵にした綴織です。


<月鉾>
屋根裏の草花図は丸山応挙


<菊水鉾>
昭和28年、88年ぶりに再興された豪華な「昭和の鉾」で稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという枕慈童。
町内に古くからあった菊水井戸にちなんで名付けられ鉾頭には金色の菊花をつけます。

<仕込みさん>
ぶらぶら歩いていると前から”仕込みさん”が・・・
仕込みさんとは舞妓としてデビューする前の舞妓見習いさんのことです。

<粽・ちまき>
祇園祭りの粽は食べるものではなく、玄関など門口に疫病災難除けとしてつるしておきます。
昔、素盞鳴命(すさのをのみこと)が旅で一夜の宿を求めたとき、貧しい蘇民将来の家で受けたあたたかいもてなしに対し(富福な家の兄は断わった)そのお礼として蘇民将来の子孫には疫病の厄を免れさせようと約束し、目印として茅の輪を腰に付けさせたのが粽のおこりとされています。
この粽、各山鉾町内によって値段が違うんですよ( ..)φメモメモ



<祈念ふろしき>
福つつみ・縁つつみ・運つつみの3種類の風呂敷があり、みんな思い思いのお願い事を書いていました。
風呂敷屋さんのイベントのようです!

<山伏山>
胴掛や欄縁金具などが飾られています。


<修験者、浄蔵貴所>
右手には苛立数珠、左手には斧を持ち腰には法螺貝をつけ笈(おい)を背負っています。
昔、八坂の塔が傾いた際、法力をもってなおしたと伝えられています。

祇園祭の運営は鉾や山のある各町内が行うのですが、補助制度はあるのですが莫大な費用がかかるため、それぞれの鉾や山では 厄除けの粽やオリジナルのグッズを売っています。

<鯉山>
龍門の滝を登った鯉は龍になるという中国の伝説を基にした立身出世の金言「登竜門」を題材にした山です。
山全体を飾る前懸・胴懸・水引・見送は「イーリアス」トロイア戦争物語の場面を描いた16世紀のベルギー製。
国の重要文化財です。

<黒主山>
謡曲「志賀」を題材にした山です。


ご神体は六歌仙の一人、大伴黒主が桜の花を仰ぎ眺めている姿をあらわしています。

黒地に朱で「黒」と書かれた団扇やTシャツ、そして京都土産の定番である生八つ橋の黒八つ橋が売られていました。
黒主山では数量限定で食べられる粽を売っているそうです・・・(;一_一)



<山伏の巡拝>
聖護院門跡寺院の修験僧がいくつかの山鉾町を周り奉経を行います。


<北観音山>
前掛け・見送り(山や鉾の周りを飾る布)は各鉾や山ごとに特色があります。


<南観音山>


<屏風祭>
宵山の期間中(7/14〜16)に山鉾町内の旧家が家宝の屏風や掛け軸などの美術品を飾り公開しています。
京の町衆の教養や財力の象徴ともいえる逸品は、普段見ることのできない貴重なものです。
上の写真:松坂屋 下の写真:藤井紋


<吉田家>
京都にある典型的な京町屋で日本の坪庭の特徴をうまくあらわしています。
坪庭の奥には座敷がありそのまた奥に広い庭があります。
坪庭には直射日光があたらず、日のさす奥の庭との間に温度差がおきて自然対流により自然の風が涼しげに流れるようになっています。
また葭戸(よしど)も京町屋の夏には欠かせないもので目隠しにもなり、風は通るというすぐれ物です!

京都では一昨日の7月10日から祇園祭の鉾建てがはじまっています。
京都のメインストリートである四条通りには長刀鉾や函谷鉾などの鉾が釘を1本も使わず組み立てられています


<函谷鉾>
函谷鉾(かんこぼこ)は、四条通烏丸西入ル函谷鉾町の鉾で応仁の乱(1467〜1477)以前に起源をもち、くじ取らずの鉾として鉾では長刀鉾に次いで第二番目に巡行し鉾櫓、屋根の規模は大きい方である。
鉾の名は中国戦国時代(前403〜221)斉の孟嘗君(もうしょうくん)が函谷関で家来に鶏の鳴声をまねさせて関門を開かせ難を逃れたと言う故事にちなんでつけられている。 (函谷鉾サイトより抜粋)

<月鉾>
月鉾は、真木の中程の「天王座」に、夜と水徳の神の月読尊(つくよみのみこと)が祀られています。
右手に櫂を持ち、月を仰ぐ姿で船に乗っています。

天辺の鉾頭(ほこがしら)に掲げられた、横40cm・上下24cmの金色の三日月お月さま(三日月)です

7月になると、各鉾ともそれぞれの「会所」でお囃子の稽古が始まり、会所の二階でお囃子をするので「二階ばやし」と呼ばれています

「古事記」によると月読尊は、伊弉諾尊(いざなきのみこと)が黄泉の国から戻って、禊祓い(みそぎはらい)をしたときに右眼を洗ったときに生まれた神といわれています。

月鉾は1864年の鉄砲焼けの大火でも、失ったのは真木だけで細部にまでいたる様々な古い豪華な装飾品が残され、いたるところに金属の装飾が施されていて山鉾のなかでも最重量を誇り”動く美術館”と称されています




鉾が今のような形になり豪華な飾りを付けるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて町人の文化が花開き、海外との貿易が盛んとなる頃からです。
中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされたタペストリーなどを各山鉾に飾るようになり、山鉾は「動く美術館」とも呼ばれ、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られています。

<放下鉾(ほうかぼこ)>
胴体になる胴組みを、釘を使わずに荒縄だけで組み上げます。
放下鉾の名前は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祭ることに由来しています。
放下僧とは街角で芸をしながら仏法を説いた僧です

真木
20数mもあり、根元の方は木材ですが中ほどからは竹。
釘は使わずにうまく繋がれていきます

古書には鉾の真木が長すぎて悪口を言われ少し切詰めたと書かれています。

鉾が建ちはじめ、室町界隈ではセールの準備を始め、いよいよお祭らしくなってきました。

美山かやぶきの里
美山川沿いに雛壇状に形成された集落で、茅葺き屋根の家屋が建ちならび農村の原風景ともいうべき風情が見られます。

かやぶきの里北村は現在50戸中38戸がかやぶき屋根の建築の集落で、集落でのかやぶき建築数は
岐阜県白川村荻町、福島県下郷村大内宿に次ぐ全国第3位です。

伝統技法による建築物群を含めた歴史的景観の保存度への評価が高く、平成5年12月に国の重要伝統的建造物群保存地区の
選定を受けました。

集落の入り口には今では見られなくなった、昔ながらの赤ポストがあります。

破風
小間の一番上にある三角の部分です。
風通しの役割や昔はすべての家が囲炉裏をたき家中を煙でいぶしていましたので、煙を抜く役割などがあります。

もともとは真ん丸い穴があいていただけですが、ちょうどこの集落にかやぶき民家が建ちだした200年位前から、
破風にも飾り付けをするようになってきました。
家紋を彫ったり、魚の形をした彫り物(けんぎょ)を付けたりするようになってきました。
この集落には8種類程度の家紋が施されています

重要文化財・石田家住宅

慶安3年(1650年)建立。
北山型の農家住宅としては日本最古のもので、昭和47年に重要文化財に指定されました。
現在は外観のみ公開されていて、土・日は家屋内部も見ることができます。

外は縁側となっています。
障子が無く板戸で仕切られているので内部はかなり暗いですが、先人の生活様式を肌で感じることが出来ます。

囲炉裏のある部屋
<案内板より・・・>
石田家住宅はしばしば樫原で庄屋を務めた旧家である。
昭和48年10月より18ヶ月をかけて解体修理がなされ、この時に『慶安3年(1650年)3月11日』の墨書が発見され、
建立年代が確定され、現在年代の明らかな民家としては最古と言われている。

この住宅は入母屋造、茅葺で西妻側に入口を設ける妻入とする。
平面は棟通りで表・裏側と二分割され、表側の奥より座敷「オモテ」、下座敷「シモンデ」、馬屋「マヤ」、裏側は納戸「ヘヤ」、
台所「ダイドコ」、土間「ニワ」と並ぶ。

オモテ(父母の部屋)
オモテだけが畳敷で、間仕切は板壁と袖板壁片引戸で区切られ、ダイドコとヘヤ境に帳台構(ちょうだいがまえ)が二間並び面白い。
土間は床面近くまで土を盛上げる「アゲニワ」とする。

台所のクド
小屋組は棟束と母屋束・繋梁で構成される「吊」字型の「おだちとりい」組と呼ばれる形式で組まれている。

台所(奥は馬屋)
当家のような独特の形式を「北山型民家」と総称され、旧北桑田郡(現南丹市)を中心とする丹波地方東部に分布し、
石田家住宅はその最も古い例で、指標となる貴重な民家である。

昔の台所

上の洗い場で使われた水などはココから外に流れ出ます。

祖父母の部屋
かやぶきの里は多くの人が訪れていましたが、石田家は訪れる人も少なくひっそりとしていました。
観光地化されていない石田家はお世話をしてくれている地元のおばちゃん達の優しさにホッとしました。
拝観料も志です。
石田家の近くにひっそりと佇む大原神社も静かでお気に入りのスポットです。

京都・福知山にある観音寺にアジサイを見に行ってきました。

参道のアジサイ
観音寺は”関西花の寺第一番霊場”で、丹波あじさい寺とも呼ばれています。

観音寺は1300年もの間善男善女によって拝まれてきた霊佛観世音菩薩さまがお祀りされています。

アジサイ寺の始まり
観音さまの霊力で眼病が治り、再び光明を得たお礼にと七色に変化する光の花、あじさいを数本植樹されたのが始まりと言われています。

縁側に腰掛けて、しばし時を忘れてアジサイの丘を見上げるともう別世界のようです。




境内を彩るアジサイは約100種類1万株。
瑠璃色のヒメアジサイや鮮やかなブルースカイ、深い青から赤みを帯びた紫色の花が満開でした。

七観音霊場めぐり
多くの方が病気平癒や縁結びなどの諸願成就を祈願してお参りされています。
数々の奇蹟が起こっているそうです!!

聖観音菩薩
アジサイを愛でながら観音菩薩さまに鐘を2つ打ってお参りします。
一つは仏国浄土のおんため、もう一つは家内安全・心願成就のために。

あか水
弘法大師お手掘りの井戸で、祈祷後、お土砂と共にこの水を頂くと楽になれると言い伝えのある霊水です。

慈母観音菩薩

お地蔵さまとアジサイ
なんとも言えない、可愛いお顔をした心安らぐお地蔵さまです。

本堂
ご本尊は十一面千手千眼観世音菩薩。
ご利益は病気平癒と開運招福で、一年間健康で小遣い銭に不自由しない金わらじがお守りとなっています。

おみくじ祈願ダルマ
御神籤の後、ダルマにお願い事を一つ書いて格子に納めます。

ダルマの力で幸運を引き寄せることが出来、ダルマは持ち帰ってもいいそうです。

心の伝道室
住職の心安らぐ詩画が展示されています。その中のいくつかを・・・

やまない 雨が ないように 終わりのない 悲しみもない

おおらかに おおらかに とにかく おおらかに
心をたもって おれば 人間の悩みは
ちっぽけなもの す〜っと虚空の中に 消えていく

大きい小さい 速い遅い 強い弱いを 優劣としえみるのが人間の眼 個性としてみるのが仏の眼

この世に 存在するもので 無駄なものは 何ひとつない
プラスになるように プラスになるように
考えて生きることが 大事ですぞ

アジサイを見た後は、お抹茶とアジサイの和菓子で休憩です。

ふと、窓の外を見ると一輪だけ咲いている花がありました。

京都府の溜池100選に選ばれている福知山市野笹の睡蓮池に睡蓮を見に行って来ました。

睡蓮がこれほど大きな池に咲いているのも珍しいです。

水面のほとんどが睡蓮の丸い葉で覆われ、赤や白、黄色の花が水中から顔を出していました。

この溜池は元々は灌漑用水でしたが昭和41年6月12日、増水のため突如堤防が決壊して廃池になりました。
その後、地元住民が植えた数株が次第に広がり、現在では約1000株の赤や黄・白・桃色の清楚で可憐な花が水面を飾っています。

東方には大師山を仰ぎ、池の周囲は堤防が整備されて遊歩道が作られています。
松籟の中を歩いていくと茅葺の東屋がありました。

睡蓮の花が開く時の”ポン”という音は神秘的だと言われています。
かなり早起きが必要です。
一生聞けそうにありません!

エジプトでは「太陽のシンボル」とされ神聖な花とされていいて、エジプト・バングラデシュ・タイの国花です。

睡蓮の和名はヒツジグサ(未草)といい、未の刻(今の午後 2 時)に咲くことから付けられました。



野笹堂山お大師 四国八十八カ所霊場巡り
遊歩道の横からは第13番阿波の大日寺のお遍路が始まります。

野笹堂山お大師 四国八十八カ所霊場巡りは村内や近郷近在の多くの人々から寄せられた熱心な願いと篤いご報謝により
明治35年に開かれました。

キイトトンボ
お遍路道を歩いていると、黄色が鮮やかなトンボを見かけました。
イトトンボの仲間で平地や丘陵地、低山地の水草のよく茂った池や沼などに生息しています。

閑院宮邸跡(かんいんのみや)
歴史的価値が高い京都御苑の西南角にある閑院宮邸跡の建物と庭園の修復工事が終わり、2006年4月6日から一般公開
が行われています。
閑院宮邸跡は江戸時代から続いた閑院宮家の屋敷跡で、200もの宮家や公家の邸宅が立ち並ぶ公家町であった京都御苑
に現存する唯一の公家屋敷跡です。

閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ江戸時代の四親王家の一つで、1710年に東山天皇の第8皇子直仁親王を
始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えました。
創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかって
いません。

この場所が閑院宮家の邸宅として使用されたのは、明治2年の東京遷都に伴い閑院宮家が東京に移った明治10年までです。
閑院宮が東京に移られてからは華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16年に旧宮内省京都
支庁が設置されました。
現在の建物はその時に新築されたという記録があり、当時存在していた閑院宮邸建物や材料が使用されたと推測されています。


第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに
使用されていました。
平成18年3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた収納展示室と庭園な
どを開放しています。

玄関から展示室への廊下。右は中庭、レクチャーホール

庭園から見た閑院宮邸跡
敷地内東南には庭園の一部として池が遺されています。
事前の試掘調査で新旧の池底や州浜状の石敷きが確認され、当初の庭園は18世紀中ごろに作庭されたそうです。
今回の整備では作庭当時の遺構は保存し、その上に緩やかな州浜を設け作庭当時の池の意匠が復元されています。


収納展示室
様々な写真や絵図などがあり、京都御苑の自然と歴史について詳しく知ることが出来ます。

東福院門入内図屏風(とうふくもんいん じゅだいずびょうぶ)
徳川秀忠の五女・和子(まさこ、のちの東福門院)の嫁入り行列が描かれています。
嫁入り道具だけで560個もあり、徳川家の威信が示されています。

大内保存御沙汰書
明治維新まで御所を中心に公家屋敷が建ち並んでいた現在の京都御苑一帯は、東京遷都により荒廃してしまいました。
1877年(明治10年)に久しぶりに京都に戻った明治天皇はその様子に驚き・哀しまれ、御所保存・旧観維持を命じられた事で、
京都御苑整備の原点ともいえる大内保存保存事業が開始されました。
この文書はそのときの「大内保存御沙汰書」で「京都大内(御所)は千年余の皇居であるが、東幸後未だ数年に過ぎないのに荒廃し、
九門以内も荒蕪となったので、特旨を以って本年より明治21年まで毎年内庫の金4千円を給付する。
京都府においては保存の方法を設け、永く旧観を失わぬように」という旨が記されています。

虹梁とかえる股
天井に虹梁(化粧ばり)とかえる股を置き、化粧屋根裏天井となっています。

州浜(すはま)
州浜は京都御所や桂離宮などに見られ、海辺の壮大な景色が表現されています。
宮廷の庭園で見られる州浜が、閑院宮邸で確認されたことに注目されています。

鵺伝説(ぬえ)
平家物語「鵺」の章に、妖怪が毎夜現れて天皇をおびえ苦しめたため、源三位頼政にその退治を命じる一説があります。
頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。
鳴く声鵺にぞ似たりける。
おそろしなんどもおろかなり(恐ろしいどころではない、大変恐ろしい)。
縫えはトラツグミの別名で、冬の深夜に不気味に鳴くので妖怪の声に例えられたようです。

御所のもみじ
新緑のもみじと、新芽の濃い赤色が美しい野村もみじ。

御所の細道
御所の中の道は砂利がかなりの厚みで敷き詰められています。
これでは自転車で走るのは大変しんどいで寿司、転倒しそうになります。
でも、自転車が長年走りつづけたおかげで自転車の走行跡がとても走りやすくなっています。

くつろぐ猫
余りにも無防備で寝ている猫を発見!!
猫は苦手ですが生まれて初めて猫の写真を撮りました。

収納展示室
休館日 :月曜日・年末年始(12月29日〜1月3日)
参観時間 :午前9時〜午後4時半 ※受付は午後4時まで
入場料 :無料
庭園
参観時間 :午前9時〜午後4時半
入場料 :無料

下鴨神社の御陰祭を見に行ってきました(5月12日)。
5月は葵祭の月です。
下鴨神社では数々のお祓いの儀式を行い葵祭を迎える準備をします。(昨年の葵祭の様子)
まずは3日のやぶさめ神事に始まり4日の斎王代のみそぎの儀、5日の歩射(ぶしゃ)神事、12日の御蔭祭の御生神事。
そして15日に葵祭を迎えます。
この御陰祭は葵祭に先駆けて神霊を下鴨神社に迎える重要な神事です。

緊張の面持ちで出番を待つ方々。

かけかずら
桂の枝と葵を組み合わせています。

この日は早朝から祭官や氏子・供奉者など約150人が下鴨神社から比叡山の八瀬御影神社に向かい神移しが行われます。
神聖な儀が終わると、赤の宮神社に立ち寄り下鴨神社南参道までの約1kmを巡行します。

中央の白馬に神様がのっているそうです。

下鴨本通りから下鴨神社に向かう行列。

綺麗に着飾れた馬。
でも重たそうで、かわいそう!



新緑の森を進む神馬、その背中には錦蓋(きんがい)がのっています。


大行列が下鴨神社の参道にぞくぞくと戻ってきます。

神様に捧げる葵の葉

糺の森では神馬の前で”東遊び”の舞楽が奉納されます。
中央の建物に神馬がいます。



和琴や篳篥(ひちりき)、笛などの音色に合わせ、時に両手を大きく広げ6人の男性が舞います。
このときに御蔭祭の神と人とが対話をすると言われています。



神様を迎える事により生命力が増し、人々の体内にも力がみなぎる・・・そんな喜びを表現している舞です。





日本最古の酒造の神様で、子授・安産のご利益で有名な梅宮大社の神幸祭を見に行ってきました(5月3日)。
橘諸兄の母、橘三千代が酒解神、酒解子神(大山祇、木花咲耶姫)を祭り酒造安全と子孫繁栄を祈願した神社で
境内にまたげ石があり産砂をうける風習があります。

この祭は子供神輿16基と大神輿1基が氏子町内を巡行する大祭で氏子崇敬者の家内安全と繁栄を祈願するものです。
お神輿は11時頃に神社を出発し、各町内を練り歩き神社に戻ってくるのは19時頃です。
そして各町内ではお神酒などの接待が行われます。

でも、このお神輿は担ぐのではなく台車に載せています。

屋台も出ていて中々賑やかです。


神苑無料開放
そして今日はお祭り!
なんと、杜若や躑躅などが見頃の「神苑」を無料開放してくれます!!(普段は500円です)
この神苑は神苑は、咲耶池の「東神苑」、紅玉池の「北神苑」、梅林の「西神苑」の3つで構成されていて、計算し
造営された庭園と違って、花や木々がのびやかに育っていて心がウキウキしてきます。

茶室・池中亭と咲耶(さくや)池:東神苑
咲耶池の周りには杜若や霧島つつじが咲き誇っていました。


茶室・池中亭
茶室の”「池中亭”は”芦の円屋(まろや)”とも言われ、大納言・源経信が平安時代の梅津の里の風景を歌った百人一首
『ゆうされば かどたのいなば おとずれて あしのまろやに 秋風ぞふく』 の名残です。

茶室の茅葺屋根の形は往時の芦の円屋の姿を今に伝える唯一のもので、その風雅な屋根の形は他に類を見ない
と言われています。

満開の躑躅
東神苑や北神苑には霧島つつじ・平戸つつじ・久留米つつじが満開でした。






霧島つつじ
庭一面がまっ赤になり周りの緑と対照的でとても綺麗です。

藤棚
北神苑の紅玉池の畔にある藤は満開でした。


藤の花は清々しさの中にも甘さのある香りです。

鮮やかに咲き誇るつつじと、たおやかな佇まいの藤の花・・・最高です!!

アゲハチョウも柔らかい日差しの中、甘い蜜を一杯吸っていました。

満開の松尾大社の山吹を見に行って来ました(4月30日)。
松尾大社は京都最古の神社で、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って、生活守護神
としたのが起源といわれます。
五世紀の頃、朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波の両国を開拓し河川を治めて農林産業を興しました。
同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、文武天皇の大宝元年(701年)には、山麓の現在地に社殿が創建されました。
都を奈良から長岡京、平安京に遷されたものも秦氏の富と力によるものとされています。
従って平安時代当社に対する皇室のご崇敬はきわめて厚く行幸数十度に及び、正一位の神階を受けられ名神大
社二十二社に列せられて賀茂両社と並んで皇城鎮護の社とされました。(松尾大社サイトより抜粋)

この拝殿(左側)で、節分の時に石見神楽がおこなわれてました。

満開の山吹
約3000本もの一重、八重の黄金色の山吹が一ノ井川の畔や楼門付近をメインに境内のいたる所で咲き乱れていました。


楼門と一重の山吹


楼門と八重の山吹


楼門と一の井川


一の井川と水車

一の井川と土蔵

神使の庭・亀と鯉

撫で亀さん(神使の亀)
古来、亀と鯉は松尾大神様のお使いと伝えられていて、特に亀は健康長寿のシンボルとして親しまれて来ました。
直接手で触れてその霊威にあやかりご利益を得ようと多くの人が撫でています。
天神さんの牛みたいなものです。

手水も亀です。

亀の井
酒造家はこの神泉を酒の元水として造り水に混和して使用し、また延命長寿、よみがえりの水としても有名です。
琵琶湖が渇水の時はお茶やコーヒー用の水としてよく汲みに行ってました。



脇勧請
赤鳥居の上部に柱と柱を結ぶ注連縄があり、それに榊の小枝を束ねたものが数多く垂れ下っているのが”脇勧請”です。
榊の束数は平年は12本、閏年は13本吊り下げる慣わしとなっています。
この形は『鳥居』の原始形式を示すもので、太古の昔、参道の両側に二本の木を植えて神を迎え、柱と柱の間に縄を張り、
その年の月数だけ の細縄を垂れて、月々の農作物の出来具合を占ったとされています。

霊亀の滝
この滝の水で水晶たちを清めたり水浴びをさせています。
水浴びを済ませると石たちは艶が出てスゴク綺麗になります。
大きな石は滝の水や亀の井の水を汲んで持ち帰り水浴びです。

雨宝院(西陣聖天)
西陣にある、弘法大師創建の寺院。
本堂に歓喜天を祀ることから、「西陣の聖天さん」として親しまれ、商売繁盛の神様としても信仰されています。

西陣聖天の狭い境内には本堂や庚申堂、稲荷堂が建ち並び、所狭しと歓喜桜や観音桜、御衣黄が咲き競っていました。
西陣聖天には今年は3回も桜を見に行きました。
桜なんてとっくに散っているのに、仕事が忙しすぎたのと、このお方のお世話で今頃しかblogに書けてません(>_<")
でもGWの9日間は、このお方と朝から夜までズット一緒です(σ´㉨`)σ・・・・…━━━━⊹ฺ∔ฺ⋆ฺ✧ฺ☆ズキューン♡
で、1回目は蕾の頃。
2回目は満開の時。
そして3回目は散り染めの時です。

3回目に訪れた時は、芍薬が咲いていました。

普段はひっそりとしている西陣聖天ですが、桜の時期は沢山の人です。
2,3年前までは"隠れた桜の名所”として静かに桜を楽しむことが出来たのですが、最近はblogなどで紹介されているため
桜の人気スポットになってしまったようです。

歓喜天と枝垂桜
鮮やかなピンクがとても綺麗でした。






枝垂桜

歓喜桜
歓喜桜は八重桜で、御室の桜と同じ品種です。

観音堂
観音堂に安置されている漆箔の木造千手観音立像は、平安時代中期の作とされ国の重要文化財です。





御衣黄
黄緑色の花をつける八重桜です。

花が落ちてきた
花びらでなく、桜の花がそのまま落ちてきたので上を見ると・・・スズメが・・・

スズメが桜の花を啄ばんでいました。


足元には桜の絨毯


満開の桜もいいですが、桜吹雪の景色のほうが好きです。
宿りして春の山辺に寝たる夜は 夢の内にも花ぞ散りける

この景色を撮るため撮影の順番を待ち、曇るのを待ち・・・でした。

弘仁12年(821)嵯峨天皇の病気平癒を弘法大師空海が祈願し、六臂の歓喜天(聖天)を安置した大聖歓喜寺が始まりとされ、
当初、境内は広大で千本通五辻までありましたが、応仁の乱(1467〜77)により堂宇は焼失、荒廃してしまいました。
天正年間(1573〜92)に雨宝院のみが現在地に再建されたと伝えられています。








境内には桜だけでなくクリスマスローズやヤマブキ、椿、木瓜などの花が境内いっぱいに咲いていました。

法華宗真門流総本山 本隆寺
開祖日真大和尚は、長享2年(1488)に四条大宮に本隆寺を開創しました。
後柏原天皇等の支援を得て法運は隆盛しますが、天文の法難に遭遇し、諸堂は悉く消失し泉州堺に避難しました。
天文11年(1542)春、現在の地を得て再興され、承応2年(1653)には大火により諸堂を失いますが本尊は無事で、
万治元年(1658)に再建されました。

天明8年(1788)の大火により、再び山門・鐘楼・方丈・塔頭と悉く焼失しますが、本堂・祖師堂・宝庫は消失を免れました。
このことにより「焼けずの寺」の異名がつくようになりました。

本堂
大火を免れた十七間四面の堂々とした本堂は京都府指定文化財で日蓮宗京都十六本山の中で最も古いものといわれています。
塔頭八支院が境内を取り巻くように立ち並んでいます。

染井吉野
山門をくぐって直ぐにある満開のソメイヨシノ。



この本隆寺もガイドブックには載っていないので観光客もほとんどなく、地元にとけ込んだお寺です。
春には桜が境内を埋め尽くし、桜の穴場です。
でも最近はblogで結構紹介されているので来年は観光客で一杯だったりして。。。

夜泣き止め松
五世の日諦上人が養育を頼まれた赤子の夜泣きに困った際、題目を唱えながらこの松の木を回ると泣きやんだという
故事から名づけられました。



枝垂桜
本堂の裏にひっそりと咲いている、綺麗なピンクの枝垂桜。



祖師堂
京都府指定文化財です。



轉法輪蔵

京都府庁旧本館 春の一般公開と観桜会
京都御所春季一般公開と同時期(4月4日〜8日)に開催されていて、旧本館中庭の桜や旧知事室・貴賓応接室などが
見ることが出来ます。
写真は明治37年建立の京都府庁旧館で、平成16年に国の重要文化財に指定されました。

中庭の桜
昭和の始めに円山公園の枝垂桜の実生木を植えたもので、円山公園の枝垂桜からかぞえて孫にあたります。
ほとんど散ってしまっていないか?

建物は中庭の桜を取り囲むように建てられていて、各部屋から桜を鑑賞することが出来ます。


3本あるこちらの2本の枝垂桜は満開で、すっごく綺麗でした。

2階の部屋から窓越しに満開の枝垂桜。窓枠が額縁です!!




中庭は 七代目・小川治兵衛 によって設計された庭園です。

京都府庁旧本館
明治37年竣工の京都府庁旧本館はネオ・ルネサンス様式の煉瓦造で知事室や正庁 ・ 議場など50室余りの部屋があります。


京都府庁旧本館・中央階段
大理石で作られた2階へ上る階段は左右両方向に回り込む吹き抜けの階段で、中庭からの自然光が入り込みとても素晴らしく素敵でした。


旧知事室
明治37年から昭和46年まで使用されていた旧知事室です。
”日本の洋家具の父”と呼ばれた杉田幸五郎氏による調度品などがありました。


正庁
大正4年11月8日 夜の閣議を開催
昭和3年の御大典を機に内閣・内務省を設置
白い天井にシャンデリアと浮き彫りされた模様がとても素敵でした。

廻り廊下は白い壁、そして上げ下げ式の窓からは明るい日差しが差し込んできます。
そしてこの旧本館では今でも使用されている部屋がありました。

旧本館の暖炉
旧本館のうち、旧知事室・旧食堂・旧応接室・旧貴賓応接室の4室には暖炉が据付けられており、それぞれに凝った
装飾が施されていました。
旧知事室の暖炉
旧知事室の暖炉は大理石にタイルを組合わせたもので、上部に大きな鏡が取り付けられていて、知事室に威厳を与
える作りになっていました。

旧食堂の暖炉

旧貴賓応接室の暖炉


京てらす
京都府庁第2号館屋上は地球温暖化対策のひとつとして屋上に芝生や樹木を植え、花壇作られ屋上緑化のモデル
事業として一般に開放されています。
この”京てらす”は以前、ぽのこさんのblogで紹介されてましたよ〜。

六角堂
六角堂の寺号は紫雲山頂法寺といい、西暦587年に聖徳太子が創建したお寺で、本堂が六角の建物なので六角堂と呼ばれています。
しだれ柳も若葉を伸ばし、とても緑が綺麗で春満開といった感じです。

ご本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩で、平安時代から霊験をたたえた記録や
説話も数多く残されています。

この地は太子沐浴の池の跡ともいわれ、池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったところから「池坊」
と呼ばれ、この池坊代々の執行によっていけばなが完成されました。
なんと六角堂は我が国の生け花の発祥の地なのです。

六角堂境内 の枝垂桜が満開と聞き見に行って来ました(4月8日)

御幸桜
長徳二年(996年)花山法皇の六角堂の御幸により西国三十三所観音巡礼が始まったことを受け、花山院前内大臣が
六角堂の桜を見て詠んだ歌から名付けられました。

お気づきですか? 傘を開けた衝立の形も六角形です。


御幸桜は早咲きの桜で、いち早く京都の町に春を告げてくれます。




御幸桜、最初は優しい淡いピンク色ですが、暖かくなるにつれ濃いピンクに変化していきます。

一言願い地蔵
このお地蔵様は少し首を傾げられた姿をされていますが、これは悩んでおられるわけではなく、お参りに来られた方の願いを
叶えてあげようかどうしようかと考えられているお姿です。

合掌地蔵
このお地蔵さんはお参りに来られて方の願いを手のひらに優しく包み込んで、その願いが叶えられるようにと、一緒に
お祈りしているお姿をしています。
手を合わせ、その手に願いをささやきながら吹き込みます。


わらしべ地蔵
このお地蔵様は特に小さな子供を守ってくださいます。

へそ石
桓武天皇の延暦12年(793年)に京都に遷都の時、当時の六角堂が道路の中央に当たったため、天皇が遷座の祈願されたところ、
御堂が五丈(約15m)程北へ移動したという。
その時、とり残された礎石がこの石であると伝えられています。
また、京都のほぼ中央にあたるところから”へそ石”とも”要石”とも呼ばれています。
現在は祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は京都市役所で行われていますが、江戸時代は六角堂で行われていました。
世をいのる春の始めの法なれば君か御幸のあとはありけり


一之船入
”一之船入”は木屋町通沿いに流れる高瀬川の始点にある掘割で、今は復元された高瀬舟が係留されています。
高瀬川は角倉了以が慶長16年(1611年)に木屋町通二条下ル付近から鴨川を分流し開削した全長10km、幅7mの人工川です。
後ろの赤い建物は日本銀行京都支店です。

高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所を船入といい、一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡です。

昔は底が平たく舷側の高い高瀬舟が盛時には百数十艘が上下し、大阪などの物資を運びいれていました。
木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多くの問屋が立ち並んで賑わい、船入はこの一之船入をはじめ数箇所に設けられていました。

明治以後高瀬川は舟運の目的を失いましたが、両岸に柳を植えた景観は京都の情緒の大きな要素となっています。
そして一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されています。


桜には川や湖など水とあいます。
高瀬川と桜、とても京都の繁華街にある風景とは思えません。

そう、高瀬川に沿ってある木屋町通には飲食店が立ち並ぶ繁華街で、ここだけが江戸時代にタイムスリップしたような場所です。

大和橋から白川の眺め
大和橋(やまとばし)は江戸幕府によって、石柱・石桁・石板形式で架けられ、当時の白川は今より川幅がありました。
当時の面影を残す石橋です。

白川の宵桜
祇園白川の桜がライトアップされているので行ってきました。
メインは縄手通りから花見小路通りまでの白川南通りです。


料亭から眺める景色はどうなんでしょうか?
ほろ酔い気分できっと桜を見ているんでしょうね。

新山の前の桜


辰己大明神
芸の上達を願い、お座敷(仕事)前に舞妓さんや芸妓さんがよく参りしています。
お稲荷さんなのにここは狐でなく狸が祀られています。
昔、この付近にいたずらな狸がいて橋を渡る人を化かして川の中を歩かせていた。
そこで狸のいたずらに困った人たちが、お社を建て狸をお祀りしたところ狸のいたずらが無くなったと言われています。


巽橋付近
巽橋界隈は京町屋が整然と立ち並び祇園の中でも最も絵になりやすい場所です。
白川や石畳などとも調和して、多くの観光客が写真を撮っています。

新橋通
白川南通の一本北にある新橋通は昔ながらのお茶屋街の雰囲気が残っていて、白川南通の喧騒が嘘のように静かな雰囲気が最高でした。
そして花灯路も開催されていました。

桜展なども開催されていました。
川端通から縄手通
ここは距離は短いですが桜のトンネルになっていて、すごく綺麗です。
高瀬川
帰りに通った、西木屋町通にそって流れる高瀬川です。

NHK大河ドラマ”義経”で紹介された”駒止地蔵尊(斬首地蔵)のある蓮光寺に行ってきました。
それと長曾我部盛親公のお墓もあります。
扉は閉まっていますが左にある木戸から自由に入ることが出来ます。(開門7時、閉門5時)


負別山
蓮光寺は浄土宗で知恩院を本山としていて、山号を負別山(ふべつざん)といいます



観光客も誰もいなくて、静かでゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。
清水さんや高台寺、三千院のような華やかさはないですがガイドブックに載っていないお寺も中々のものです。

明応元年(1492年)に天台宗真盛派開祖の真盛上人を開基とし、高野山の苅萱堂を模して下京区新町高辻に
草庵を結んだことから、当初「萱堂」と称し、天台宗に属していた。
天正19年(1591年)豊臣秀吉の命により現在の富小路通り六条に移り、真盛上人の弟子、玉譽光順上人が
浄土宗に改め、二世順譽蓮光上人のとき寺号を蓮光寺と改称した。
正保年間(1644〜1647年)に大阪城を設計した中井大和守の帰依を受けて本堂を建立。
元禄13年(1701年)に勧修寺二品法親王より山号「負別山」の染筆を下賜され、現在も本堂に掲げられている。
京都四十八願寺中、第三十五番に数えられている。
建物は、天明8年(1788年)京都の大火災および元治元年(1864年)蛤御門の変で焼失、明治29年(1896年)
に再建されたがその後老朽甚だしく、昭和58年(1983年)に本堂の改修と書院、庫裏の再建が行われた。
(蓮光寺サイトより抜粋)

駒止地蔵尊
駒止地蔵尊は、弘法大師の御作で、もと六条河原の刑場に祀られていましたが、鴨川の氾濫で埋もれてしまっていました。
保元3年(1158年)平清盛の乗馬が急に立ち止まって動こうとしないので、あたりを掘ってみるとこの地蔵尊が出てきたそうで、
それ以来、駒止地蔵尊の名で信奉されています。
また、この地蔵尊は盗賊に襲われた篤信者を護り、身代わりになって首を斬られたと伝えられ「首斬り地蔵」の名もあります。
江戸時代の中期に霊験が評判で名地蔵と数えられる地蔵尊が21体あり、その1つに数えられています。

文治元年(1185年)10月、源頼朝は義経暗殺の密命を土佐坊昌俊に下しました。
昌俊は義経に夜襲をかけましたが、打ち負かされ捕らえられて六条河原で殺されました。
この駒止地蔵尊は六条河原で処刑された多くの人々の末期を看取ってきたのです。

高さ八尺の石造の地蔵尊です。





白玉稲荷大明神


長曽我部盛親公
大阪夏の陣に敗れた土佐の長曽我部盛親公の五輪供養塔。
長曽我部盛親公は関が原の戦いに参戦の後、豊臣家のために再起を期し、京洛の地に大岩祐夢と号して寺小屋を営んでいた。
この間、当山の時の住職蓮光上人と親交があった。元和元年(1615年)大阪夏の陣に敗れ、六条河原で斬首されるや
蓮光上人は所司代板倉勝重に請い、首級を当山の墓地に葬って供養した。
時に盛観公41才、法名を領安院殿源翁崇本大居士と諡した。
盛親公の遺品として、太刀、鎧(片紬)、鐙等が当山に伝持されている。
ありゃ〜、ルのご先祖さまが登場しただぁ〜!!
(蓮光寺サイトより抜粋)




ミツバチがいるのが分かりますか?


庭には梅や桜、雪柳が満開でとても綺麗でした
この景色が一人占めですから最高です!!

虚空蔵法輪寺
虚空蔵菩薩(ご本尊:こくぞうぼさつ)がある、虚空蔵法輪寺で芸能上達祈願祭がありました(3月10日)。
虚空蔵菩薩は今昔物語や枕草子・平家物語などにもかかれており、古くから智恵・福徳・技芸上達そして丑寅年生の
ご本尊の仏様として信仰を集めています。

虚空蔵法輪寺は渡月橋の南の嵐山の中腹にあり、”十三まいり”のお寺として有名です。
また、”針供養”のお寺として全国から信仰を集めており、境内には電気・電波を守護する鎮守社”電電宮”が祭祀されています。

通称”十三まいりの虚空蔵さん”は、和銅6年(713年)に元明天皇の勅願で行基菩薩により創建されました。
当初、寺の名は「木上山葛井寺(もくじょうざんかどのいでら)」と呼ばれ、国家安穏・万民の繁栄と五穀豊穣・産業の
興隆を祈る勅願所でした。
この葛井寺が法輪寺の起源で貞観10年(868年)に”法輪寺”と改められました。




芸能上達祈願祭
芸能・工芸の守護仏として信仰をあつめている虚空蔵菩薩に音楽や技芸・習い事などの上達を祈って本堂で法要が営まれました。
法要は4人のお坊さんにより執り行われ約30分ほどで終了。
京都の行事にしてはあまり有名でないためか、そんなに多くの人出もなくゆっくりとした時間が流れていきました。

奉納狂言
芸能上達祭のあとは茂山忠三郎社中による狂言奉納。
本日の演目は”舟船”。

舟船
主人が外出しようと太郎冠者に相談し、太郎冠者の勧めにより西宮に行くことにしたが、途中で神崎川という
大きな川に出くわしてしまいます。
乗る物を太郎冠者に探させたところ、太郎冠者は遠くのほうの船に向かって「船(ふな)やーい。船やーい。」
と呼びかけます。
主人は「あれは舟(ふね)だ」というが、太郎冠者は古歌を引き合いに出して船だと言い張ります。
主人も古歌を読んだり謡を謡ったりして 船と言い張りますが太郎冠者に言い負けてしまいます。

舟(ふね)か船(ふな)かを言い争う短時間の狂言ですが、引合いに和歌を出してくるところが一番の見所だと思います。

主人が持ち出した謡は謡曲『三井寺』の1節で、「山田矢橋の渡し<ぶね>の、夜は通ふ人なくとも、月の誘はばおのづから、
<ふね>もこがれいづらん」までは良かったが、その続きが「<ふな>びともこがれいづらん」となってしまいます。(゚▽゚;)アチャー!!
”ふな”と言っちゃた!!

<ふなびと>と出てくるところで詰まってしまった主人。
調子に乗った太郎冠者は、主人の謡のことばの後を受けて続きを歌い怒られます。

主人 茂山恭仁子
太郎冠者 桝谷雄一郎
後見 茂山忠三郎

狂言で呼び名が違うことで言い争う演目には鶏流(けいりゅう)や花争(はなあらそい)などがあります。


展望台からの眺め
虚空蔵法輪寺の展望台からは嵯峨野方面が一望でき、”五山の送り火(大文字焼き)”の一つである”鳥居”も目の
前に見ることが出来ます。

そして渡月橋も真正面に見ることができます。
この渡月橋は十三参りのお参りをして知恵を授かっても、帰り道渡月橋を渡りきるまで振り向いてはいけないと言われ、
振り向くとせっかく頂いた知恵が無くなってしまうそうです。
ルも子供の頃、家族で十三参りに行ったのですが渡月橋の上で弟が後ろから大きな声でルを呼んで振り向かせよう
としていたことが懐かしく思い出されました。
道昌僧正は承和年間に勅願により大堰川を修築し、橋を架け船筏の便を開きました。
その時架けられた橋を亀山上皇が見て”くまなき月の渡るに似たり”と言われたことから渡月橋と命名されたといわれています。

桜
境内には早咲きの桜が満開でとても綺麗でした。

桜の木の下で灯籠を食べようとしている狛犬・・・狛カバか???

顎がはずれたぁ〜〜〜〜〜〜!!
こんなに大きな口を開けている狛犬は見たことがないです。






本殿と多宝塔・鐘楼
蛤御門の変(1864年)では長州藩の浪士が渡月橋を挟んで対岸の天龍寺に集結した戦で虚空蔵法輪寺の建物は
すべて焼けてしまいました。
その後本堂を明治17年に再建し客殿・玄関・回廊・庫裏・山門などを順次竣工して大正3年に今のお寺の形となりました。


針供養
虚空蔵法輪寺の針供養は「皇室で使用された針をご供養せよ」との天皇の命により始まったといわれています。
現在でも12月の針供養の際には皇室からお預かりしました針のご供養をしており、針供養当日は針を蒟蒻刺しています。
これは、これまで一所懸命働いてくれた針を蒟蒻にさして休んでもらおうということだそうです。

電電塔
右はトーマス・アルバ・エジソン、左はハインリッヒ・ルドルフ・ヘルツの胸額です。


電電宮
法輪寺鎮守社で”電気・電波”の守り神です。
道昌僧都が百日間の求聞持法を修し、満願の日に井戸で水を汲んでいると明星が天空より降りそそいで、虚空蔵菩薩
が来迎したと伝えられています。
本尊の顕現としての明星天子を本地として『電電明神』を主神とする『明星社』が鎮守社のひとつとして奉祀されました。
同社は禁門の変(1864年)で焼失しましたが1956年にそれまでの仮宮であった社殿を電気電波関係業界の発展を祈願
するため”電電宮”として新たに奉祀されました。

十三詣り
古来より、数え十三歳になったた男女が成人の儀礼として法輪寺に参拝しました。
十三歳の厄難を払い、智恵を授けていただけるように虚空蔵菩薩に祈願し、別名”知恵詣り”とも呼ばれています。
そして前述のように、お詣りが済んだ後の帰路、渡月橋を渡るまで後ろを振り返るとせっかく授かった知恵が無く
なってしまうという言い伝えがあります。
難波より 十三まゐり 十三里 もらひにのほる 智恵もさまざま
の歌で知られるように、江戸時代の中頃から京都のみならず近畿一円からのお参りが一般に広がりました。
古くは本尊虚空蔵菩薩の最もご縁の深い旧3月13日(現在の4月13日)に参詣するのが一般的でしたが、現在は
3月13日〜5月13日(4月13日を中日とした一月間)と10月〜11月の期間が十三まいりの期間となっています。


誕生月開運扇
社務所ではこんなかわいい”開運グッズ”が授与(¥700)されていました。
10月生まれのルが買った扇は”紅葉に筏”でした。

油掛大日如来地蔵尊
油掛地蔵は今より約670年前の鎌倉後期の延慶3年に平重行の願主にて建立された御仏です。
ご本尊は阿弥陀如来、頭光内の種字観音・勢至の両菩薩とあわせて弥陀3尊の御姿です。
石の両肩を斜めに大きく切り落とした珍しい形で、厚肉彫りで胸の張り豊かで両肩から両腕にかけての重厚さは
鎌倉中期石佛の風格がうかがえます。
京都で鎌倉期在銘の石佛は、この油掛地蔵の他に二体(善導寺・三尊石仏、石像寺・弥陀三尊石仏)しかなく
どちらも重要文化財・重要美術品に指定されていますので、この油掛地蔵尊も重要文化財に指定されてもおかしくないと思います。
油掛地蔵尊に油をかけると祈願成就するという言い伝えは、1680年(延宝八年)黒川道祐の近畿歴覧記”嵯峨行程”
に”油掛地蔵此辺にあり、凡そ油を売る人この所を過るときは必ず油をこの像に灌いて過ぐ云々”とあり、少なくとも
約300年以上の昔より油を掛けお祈りした風習があったことが分かります。
昔は生活に欠かせない貴重な油を、どのような想いで地蔵尊に掛けてお祈りをしていたのか気になるところです。

仏様の大きさ
高さ 170cm
巾 84cm
お顔 27cm
厚さ 40cm
油掛地蔵尊は嵯峨野の北の有栖川にかかる”油掛橋”のほとりにあり、ここの辻には”右あたご、左こくうぞう”と
刻まれた道標石(1798年)が立っています。
油掛地蔵は全国各地にもあり京都にはもう一体、伏見にあります。
御詠歌
あさひさす 日の出かがやく 油かけ
ただひとすじに たのめ こそすれ



お地蔵様は三百年以上前から油が掛けられ、近づくと油の臭いでいっぱいです。
そしてお地蔵様は油でべっとりとなり黒光りしていてとてもお地蔵様に見えません。


市比賣神社は通称”いちひめさん”と呼ばれ京都中央市場の守護神であり、女性をお守りする神様で”京都十六社
朱印めぐり”の一社です。
申年のみに下着のお守りが販売され、下着と一緒に箪笥にしまっておくと、婦人病にご霊験あらたかといわれています。
全国に多くある”市姫社”はこの神社の分社です。

市比賣神社は平安京が制定された翌年の795年に東西市(官営市場)の守護神として桓武天皇の勅命により
藤原冬嗣公が堀川七条(東市座内の七条坊門)に1300坪を境内として御鎮座され、1591年に豊臣秀吉の都市改造
により現在の地(京区河原町通五条下ル)に御遷座されました。
中世には空也上人が神託により市屋道場を開創し一遍上人が境内で踊り念仏を演じたといわれています。
21年目毎に御本殿を建て替える”式年造替”の制度があり、足利将軍家や花山院家により幕末まで行われていました。
昭和2年に日本で初めて京都に「中央卸売市場」が開設されたとき、構内に市比賣神社の分社「市姫神社」が祀らました。

御祭神
御祭神が全て女神様をお祀りしているため”女人厄除け”の神様として全国から多くの女性が参拝に訪れています。
御祭神は神大市比賣、市寸島比賣、多岐都比賣、多紀理比賣、下照比賣の五女神。
御祭神の神大市比賣は、大山祇の娘で素盞鳴の妻で、宇迦之御魂・大年・大国主の母です。
市寸島比賣と多岐都比賣・多紀理比賣は宗像三女神で下照比賣は大国主と多紀理比賣の娘です。


お食べ初め
生後50日目(と百日目)に”五十日百日顆之餅(いかももかのもち)”を授かり子供に食べさせ成長を祈るもので、
安徳天皇の記録を初め花山院家や足利家歴代の史記にも見られ、現在の”お食初め”発祥といわれています。
今も皇族や旧家では当社より餅を頂いているそうです。
市姫の神の忌垣のいかなれや商物に千代を積むらむ(為頼朝臣集)



本殿
本殿は神社としては大変珍しい”北向き”に建てられています。
これは天正の御遷座の折り、皇室守護の神社として御所を望み北向きにされたと伝えられています。
全国的にも珍しい御神像(秘像)は平安時代の作で母神が童神を抱いており慈愛に満ちた姿といわれおり、
創建以来歴代皇后の信仰を集め”皇后陛下勅願所”として、現在でも御安泰のお守り「女人守り」を献上しているそうです。




姫みくじ
運を占うお御籤です。
占った後は持ち帰ってお守りにしたり、願い事を書いて一願成就の井戸”天之真名井”に奉納します。
(一体 600yen)。
天之真名井
洛陽の七名水として知られているご神水「天の真名井(あまのまない)」は歴代天皇の産湯に用いられたと伝えられ、
今でもお茶会で使われています。

で、この御神水を貰いにくる人も多く、そのためにこのような水道が設置されています。
便利なことはいいですが、チョット”無粋なこと”どす。


一願成就まいり
絵馬を掛け”天之真名井”の御神水を呑み手を合わせてお祈りすると、一つの願い事が叶うと伝えられています。
(願掛け絵馬は300yen)



カード塚
1988年にカード型のお守りを奉納するために作られ、塚の周りの溝は”天之真名井”のご神水によって清められています。
その後はカード型お守りだけでなくクレジットカードや病院の診察券がなどが収められるようになりました。
カード型のお守りは全国初で1枚500円です。

おとう鈴
お手洗いのお守りで、病や事故を防ぎ鈴の清々しい音が不浄を祓うといわれています。
”おとう”の名前の由来は古く建築の東方のお手洗いを建てると家が栄えると言われたことから”御東”と称される
ようになり、現在でも宮中ではお手洗いを”おとう”と呼んでいます。
古来より妊婦がお手洗いを掃除すると安産で元気な子供を授かり、お七夜の夜は子供をお手洗いに連れ、健康
を祈る習慣があります。
日本の家屋では全ての部屋に神が宿るといわれ、特に日常生活で最も必要なお手洗いを清潔にし守り神を拝め
ることは最も大切なことといわれています。
(一体 1,500yen)


驚き!!
ふと目を上に向けて見ると・・・
ぎょえ〜〜、市比賣神社の上はマンションでした!!
境内はマンションやビルの中庭のような感じでした。

市比賣神社の祭事
1月1日 歳旦祭
2月3日 女人厄除祭
3月3日 ひいなまつり
4月15日 京都中央市場春祭
5月13日 春季大祭
6月30日 水無月祭(ひとがた流し)
9月9日 重陽祭・カード感謝祭
11月13日 秋季大祭・火焚祭
12月11日 京都中央市場秋祭
※毎月13日 月次祭

菅原道真公を祀る神社で、京の都の水害・火災を鎮めるため923年に醍醐天皇の勅願によって建てられました。
鎮座している地は道真公の師であった僧・尊意の屋敷跡ともいわれていて、道真公は太宰府で亡くなるに際し
尊意に髪を届けたといわれています。
鳥居の横には”日本最初 水火天満宮”と”孝学堂跡(江戸時代に宮司の孝道が境内に開設した学問所)”と
刻まれた石碑があります。

道真公の死後、都に落雷が続き祈祷の命を受けた僧・尊意が御所に向いました。
途中、鴨川の水があふれていたので、天に向かい神剣をかざして祈ると、道真公の神霊が現れ、
たちまち雷雨が止み、この時、神霊の降りた石が、現在も”登天石”して境内に残っています。
そのような事から、尊意が延長元年に道真公を祀ったのが水火天満宮といわれています。
(※僧・尊意は比叡山の天台宗座主13世です)

水害・火災・厄除・安産・合格祈願のご利益があります。
また、”玉子石”と呼ばれる石があり、5ヶ月目にこの石を拝むと安産するといわれています。

登天石
903年に菅原道真公が大宰府の地にて59年の生涯を閉じられた。
その死後、京の都では天変が相次ぎ人々は道真公の怨霊のせいと信じ、時の醍醐天皇は延暦寺の
法性坊尊意僧正に、祈祷を依頼し勅命を受けた尊意は早々に山を下り宮中に急ぎました。
途中加茂川まで来ると突如、水位が増し町へと流れ込みました。
尊意は慌てることなく数珠をひともみして川に向かって祈りを捧げました。
すると不思議なことに水位は下がり、真っ二つに分かれ水流の間に一つの石が現れ、その上に道真公の霊が
現れやがて雲の中に消えていきました。
その石を供養し登天石と名づけられました。
”登天石”は道真公の悲運の伝説と共に有名で、一説には隕石ともいわれています。

出世石
近年出世した人が寄進されたので、”出世石”といわれています。

金龍水
金龍水は眼病によく効くといわれています。


六玉稲荷
末社である六玉稲荷は、就職祈願として信仰があります。

乗馬禁止の石柱
”是より洛中荷馬口付のもの乗べからず”
ここから都なので都の中には、馬に乗ったまま入ることを禁止する、荷を載せた馬は馬の口取り(馬子)が手綱を引いて歩くようにとのことです。
これは堀川頭にあった江戸時代の交通標識でこの場所は京の都への入口で、その昔には門があったそうです。
このような石柱はこの近辺の仁和小学校と室町小学校などにもあります。

こじんまりとした水火天満宮の境内には誰もいなく、とても静かなものでした。


そして境内の木々にはシジュウガラなどの小鳥が楽しそうに囀り飛び交っていました。

境内の白梅は満開でとても甘い香りが漂い至福のひとときでした。
多分ガイドブックにも載っていない(京都のガイドブックを買ったことが無いので定かではありませんが・・・)ので、
本当に静かな時間を過ごすことができます。

水火天満宮の祭事
1月1日 歳旦祭
2月3日 節分祭
2月12日 六玉稲荷社初午祭
2月25日 梅花祭
4月第一日曜 桜花祭
6月30日 夏越大祓式
10月第一日曜前日 宵宮祭
10月第一日曜 神幸祭
10月10日 例祭
11月第二日曜 お焚祭
12月30日 大祓式
12月31日 除夜祭

神泉苑は二条城から5分程の所(お城の真南)にあり東寺真言宗の寺院でご本尊は聖観音です。
平安京遷都とほぼ同時期に平安京大内裏の南に造営された禁苑(天皇のための庭園)で四季折々の行事が催されていました。
造営当初は二条通から三条通におよぶ南北400メートル・東西200メートルもある3600坪もある池を中心とした大庭園で、
常に清水が湧き出すことから神泉苑という名前が付けられました。

しかしながら中世以降は荒廃し、1603年(慶長8年)徳川家康が二条城を造営した時に神泉苑の敷地の多くが城内に取り込まれ
てしまい非常に小さな規模の庭園となりました。

雨乞いの舞
824年(天長元年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、このとき静御前が雨乞いの舞を舞い空海が勝ったことから
東寺の支配下に入ったといわれています。
また、神泉苑は静御前と義経が初めて出合った場所ともいわれています。
そして、小野小町も雨乞いの歌を奉納したそうです。
”ことはりや 日の本ならば 照りもせめ さしとてはまた 天か下とは”
理屈から言ってこの国が『日の本』だから日照りになっても仕方ない。しかし、世界を『天が下』とも言うのだから雨を降らせてくれ
ないだろうか。


法成就池にある舞台と幣殿・本殿
ご本殿には”善女龍王”が祀られてて、ご真言は”オン メイ ゲシャニエイ ソワカ”で心願成就のご利益があります。
神泉苑は京都では壬生寺・清涼寺・千本閻魔堂と並ぶ念仏狂言のお寺で、この舞台で神泉苑祭期間中の5月1日から
5月4日のあいだ大念仏狂言が催されます。
神泉苑の狂言は鎌倉時代から受け継がれてきた無言劇で京都市の無形民俗文化財です。
能はチョト苦手ですが狂言はとても楽しく昔から見にっています。
京都では茂山家がお豆腐狂言としてあちこちで上演されています。

法成橋
この橋は心に願いを念じながら渡りその想いを橋の向こうにある善女龍王様にお願いすると叶うと言われています。
胸に抱く守護札は寺務所で授けられます(一体500円)

法成橋
法成就池に架かる朱塗りの法成橋は昼も夜も池に映えとても綺麗です。

お御籤
静御前が雨乞いの舞を舞った舞台の横にある、かわいい和紙人形のお御籤。
恋愛を占ってくれるそうです。


観月
神泉苑は大沢の池と同じくらい観月でも有名で、善女龍王社拝殿にて沖縄三線や琴の奉納、龍船の船中でお茶席が設けられます。
そしてこの観月の時だけ普段は動かさない龍船が法成池をお月見をしながらゆっくりとまわります。
その昔、月を愛でながらひとときを過ごした、いにしえの平安貴族の趣があります。

恵方社
日本で唯一の恵方社(歳徳神(としとくじん))で毎年その年の恵方に向けて動かすことができるようになっていて、毎年大晦日の夜、
住職の読経のあと新年の恵方にお社を回転させます。
そして今年の恵方は亥子(北北西)の方角です。
恵方に向かって礼拝すると幸せが授かるそうです。

恵方がどの方向になっても動かすことが出来るように、お社の下の台座(石)が井戸のように円形になっています。

龍口水(りゅうこうすい)
神泉苑には雨を呼ぶ龍の伝説があります。
山からのエネルギー(気)が平安京を目指して龍穴に向う線上に神泉苑が配置されていて”龍口水”と呼ばれています。



矢剱(やつるぎ)大明神
ご真言は”南無矢剱大明神”です。

増運弁才天
ご利益・開運守護の弁才天様です。
ご真言は”オン ソラソバ テイエイ ソワカ”です。


祇園祭
御霊会(祇園祭巡行)は神泉苑にその起源があり7月24 日の後祭りには八坂神社の宮司さんと三若のお神輿が神泉苑に
お渡りになり祭りの無事を感謝してお祓いを受けられます。
また、本堂の前には蕪村の俳句の碑が立っています。


松尾大社の節分大祭
松尾大社の節分大祭は本殿で祭事が執り行われ、神楽”鬼の舞”があり、宮司による豆撒きで疫鬼を払いながら拝殿に昇殿し追儺行事がおこなわれます。
その後、鳴弦引目の神事、四方奉射の神事、福豆と福餅撒きが行われます。

石見神楽
神楽は島根県益田市無形文化財の石見神楽が奉納されます。
石見神楽は島根県の西部、石見地方で今でも盛んに行われている伝統芸能で、豪華な衣裳を纏い・凄しい形相の面を付け・激しい動きで舞われる神楽で、古事記・日本書紀等の物語や伝説などを演目の題材としています。


種神楽保存会の発祥は古く、江戸時代末期頃、氏子が種地区神社の祭典等に(下巫女(したみこ))として宮司に仕え、共に舞っていたことから始まります。
明治の初め、「神職演舞禁止令」により神職神楽が廃止され、当時の氏子達が集まり下種座を結成しやがて、下種座と宇治座が一つになり種神楽座となったようです。

神楽といえば神社のお祭りというイメージがありますが現在は全国各地の催し事にも積極的に出かけて行っているそうです。
そして種神楽座は150年もの歴史があり昭和52年5月23日益田市民俗芸能無形文化財指定の認定を受けました。


奉納されたのは”鬼の舞”、軽快な太鼓の音の中7匹の鬼がクルクルと回転したり、鬼棒で床を叩いたりと迫力のある舞です。

凄い、華麗!!
石見神楽の見所の一つでもある非常に豪華で美しい衣装!!
石見神楽では衣装を舞衣(まいぎん)とよばれ、明治15年ごろの神楽の大改革以来次第に豪華になり各神楽座が互いに華美を競い合うようになりました。
金襴を始め黒ビロード地などに金糸・銀糸を使って昇り竜や唐獅子などの刺繍が施された衣装は大変重たく踊り手にとっては大変なことです。しかしこの衣装の重さに耐え激しく動き回る神楽の醍醐味は圧倒されます!!



石見神楽のお面は以前は木彫りでしたが明治の神楽大改革のときに和紙による軽いお面に改良されました。
現在の和紙面は二十枚程の和紙を重ね張り表面に胡粉(ごふん)を塗った上に彩色して仕上げられています。
また石見神楽のお面は、独特の「へしみ」と呼ばれる口を折り曲げてものを言わない形相をしています。




神楽の起源
神楽の起源の最も古い記録は古事記や日本書紀に書かれている”天の岩戸の前でアメノウズメノ尊の舞”といわれています。
それ以来神楽は我が国固有の芸能として発展してきました。
伊勢神宮や宮中で行われる神楽を”御神楽(オカグラ、ミカグラ)”、庶民に伝承されている神楽”里神楽”といいます。
この”里神楽”が時代の流れにより”能」”や”歌舞伎”になったといわれています。


神楽の語源
神楽は「神座(かむくら)」が転じたものといわれています。
神座は神様が降臨する場所のことで、そこに神々をお招きし鎮魂のためのに舞を踊ったといわれています。
石見神楽の絢爛豪華な衣装は見ている人を夢の世界に誘い、舞手の厳粛な舞は神話の世界を彷彿させます。



拝殿の最前列、かぶりつきで見ていたルッチーの頭の上で舞ってくれました。
おかげで、とても迫力のある写真を撮る事ができました(=^ー^)ノ彡☆゜・。・゜★

鬼はどこに行った?
気がつけば鬼は参拝者の中に入り込んでいます。
しかし、鬼もココまで!!

本殿から豆をまきながら出てきた宮司たち神職によって追い払われます。
これにて神楽は終了です。


鳴弦引目と四方奉射神事
疫鬼の退散を念じ”松尾の神に祈らむ梓弓 弦の音聞けば悪魔退く”と称えられ鳴弦引目の神事がおこなわれます。
そして拝殿の四方四隅で天下の災厄を祓い清めるため先ず東北の隅から”四方奉射の神事”が行われました。


そして最後は福男・福女による”福豆・福餅撒き”です。
みんな福を授かろうと必死です(゚▽゚;)アチャー!!
帽子をだしたり、大きな紙袋を広げたり。

写真の撮影に忙しかったルッチーはかなり出遅れてしまいました─(゚Д゚)→ プス
しかし、福餅をGetしました。
それも3つも!!
前の方にいた人が「一つも取れなかった」とぼやいていました・・・
これで今年は良い事がありそうです。
そして帰りにこの季節にピッタリの和菓子を買って帰りました。
節分の翌日は立春、春はもうそこまで来ています。
梅一輪 一輪ほどの あたたかさ(服部嵐雪)
しかし、我家の早咲きの梅は早くも散り始めています。
最後まで読んでいただきお疲れ様でした。

今日は春日神社の隣にある客先で打合せ!!
ふと、疱瘡石が気になりチョッコトお参りに行ってみると・・・・
ナナント〜〜〜、本殿前にポツンと置いてあるではないですかw(☆o☆)w オオー!
なんでも、節分なので出したとの事です☆^v(*^∇')乂('∇^*)v^☆ヤッタネ!!
おまけに、お昼下がりだったのでおまいりに来ている人は殆どいません。
ゆっくりと拝ませていただき、じっくりと触らせていただきました♪♪v(⌒o⌒)v♪♪イエーイ


みなさんには直接触っていただく事は出来ませんが、しっかりと写真を撮ってきましたよ(=^ー^)ノ彡☆゜・。・゜★
このblogを読んで下さっている皆さんが健康でいられますように・・・
疱瘡石の大きさは巾10cm、高さ30cmほどで、石の表面はしっとりと濡れているような感じでした。
以前、オークッションでGetした特大水晶単結晶とどことなく形が似ている気がしました(〃ー〃)

春日神社は全国に沢山あり建御賀豆智命・伊波比主命・天児屋根命・比売神を祭神としています。

ここ西院春日神社は天長10年(833年)2月に淳和天皇が退位(仁明天皇に譲位)し淳和院離宮へ居を移すに際し、勅諚により奈良の春日四座大神を勧請しその守護社として創建されました。
この離宮は別名”西院”と呼ばれ、この付近の地名である西院の由来となっています。

西院春日神社は病気平癒・災難厄除の大神、還来大神として知られています。

本殿は重要文化財に指定されています。
この本殿の横には小さい子供を病気などから守ってくださる神様がお祀りされている春日若宮社があります。


そして春日神社の狛犬は鹿で、口には筆と巻物をくわえています。
この狛犬には獅子だけでなく猪や龍、狐など色々な動物が用いられています。
この動物を神使(しんし)と呼び、神使は神社によって用いられている動物が決まっており、例えば、稲荷神社には狐・春日神社には鹿・弁財天には蛇などです。

<一願蛙>
三かえるは見返るに通じ、縁起のよい蛙といわれていて、水をかけてご祈願すると願い事が叶うそうです。


早速、お水をかけてお願い事をしました。
親蛙の背中にかわいい子蛙が2匹のっています(^・^)

寛政十二年(1800年)二月二十一日、仁孝天皇御降誕の折、吉方にあたる当社、西院春日神社を選ばれ、御胞衣(おえな)を埋蔵されました。御胞衣とは胎盤、つまりお産の後に出てくる後産とも呼ばれるものです。
宮中にはこれを吉方にあたる場所に埋蔵されその健やかなご成育を祈願される慣わしがありました。
これにちなみ、安産や子授け、母体の健康、乳幼児の生育を祈り、御胞衣塚に白石・子安石を奉納する風習があります。

本殿前にある病気平癒や災難厄除を祈願する祈願石です。


病気平癒を祈って奉納された石塚で、祈願石と一緒に災難を払う金幣のお札も奉納されています。

梛石(なぎいし)
御神前の神石は、この石を撫でて災難厄除を祈願し、旅行をする人たちは、往きに還りに撫でて還来成就を祈願する習慣があります。
また、病弱者は撫でて厄除、健康の回復、病気平癒を祈ったことから”梛石”と呼ばれるようになりました。

還来(もどろき)神社
旅行安全・還来成就の守り神で貞観十六年四月十九日、淳和院が火災となり正子内親王は火難を避けるため、松院逃れられました。
その後、洞裏院に無事還御され「洞裏院が類焼を免れ「無事還り来るは是れまったく神の加護である」と仰せられ、故に後世還来の大神と称えられ、現今旅行の安全を祈る「還来信仰」として崇敬されるようになりました。
現在では天皇皇后両陛下の海外ご訪問に際しお守りが献上されているそうです。

古くから旅路道中の安全を祈って”わらじ”奉納する習慣があります。

弁天社・稲荷社
ご祭神は市杵島姫命・田心姫命です。
この弁天社は広島厳島神社の御分霊で、古くは太秦(うずまさ・広隆寺がるところです)の地に鎮座され、後に現在地にお祀りされました。
稲荷者の社殿内には、生きているかと思わせる”白狐”がお祀りされていると伝えられています。
社殿は金財を招く”巽(南東)”の方角を向いています。

そして使わなくなった古い財布が納められています。

初夢吉兆宝船図
京都では立春(節分の翌日)に見る夢を初夢とされ、節分の夜に”宝船”の絵を枕下に敷いて寝ると、立春吉兆の初夢がかなうと伝えられています。
この宝船図は江戸時代後期の版木で、順風満帆の春風を「寶(たから)」の帆に受け、他砂金袋・宝珠・蛸・打出の小槌・宝鍵・米俵・七宝・隠笠などの宝物を満載した宝来舟が大海を渡り来る大変縁起の良い絵図です。
特に”蛸”が描かれており大変珍しく”お足(お金)”が多いという意味があります。
節分の夜に枕下に敷くか、一年間玄関に飾って立春吉兆の宝来を願います。
玄関に飾るときは、室内に宝舟が入り込むよう”入舟”(舟頭を家内に向ける)にして飾るそうです。
この”初夢吉兆宝船図”は元旦から節分まで授与(700円)されます。

西院宮
ご祭神は淳和天皇(西院天皇)でご神徳家内安全です。
天長十年(833年)2月28日皇位を仁明天皇に譲られた折、西院に淳和院御所を造営されました。
鎮護の神として春日神社をご創建され現在の西院繁栄の基礎を築かれました。
淳和天皇崩御の後、大原野の御陵より御霊をお迎えし西院の祖神として崇敬を集めています。



<病気平癒の霊石・疱瘡石(ほうそういし)>
平安のはじめ淳和天皇の皇女崇子内親王が天然痘(疱瘡)を患われたとき、この石に祈願をされたところ、石が代わりに疱瘡を生じたちどころに内親王の病は治りました。
これ以後西院春日神社は皇室から病気平癒や災難厄除けの守護と崇められ、仁明天皇(承知5年7月)、後桃園天皇(安永3年7月23日)、仁孝天皇(寛政12年2月21日)、敏宮(天保元年12月21日)、和宮(弘化3年閏5月27日)、孝明天皇(慶応2年12月20日)とご祈祷をめいぜられてきました。
そして神前の「霊石」は「疱瘡石」と呼ばれ、世の人々は病の平癒を願ってこの石を拝するようになりました。
また都に疫病がはやる前には必ずこの石の表面がぬれたそうです。
かつて神前にあったのが戦前から所在が分からなくなっていた疱瘡石が数年前に本堂で偶然見つけられ、一般に公開されるようになりました。
しかし残念ながら月次祭(毎月1日・11日・15日)に本殿で公開されるのみなので、タイミングが悪く未だに拝見することができていません。
この”疱瘡石”まるで水晶のようなパワーストーン!!
一度、見てみたいです…☆^^


大寒の20日、城南宮で行われた一年の無病息災や願望成就を祈る”湯立神楽(ゆたてかぐら)”に行ってきました。
大寒といいながらも暖冬のおかげで寒さを感じることなく、40分間の伝統ある儀式を楽しむことができました(14時スタートです)。

湯立神楽で使用する大釜の火を熾す神主さん。

「文政六年癸未二月」(1823年)の銘を持つ直径70cmもある大釜とお供え物。





果物や野菜、乾物、お米、お酒などの神様をおもてなしするお供え物。
この寒い時季に胡瓜や茄子そしてトマトまで!!
昔は温室なんかなかったのに、何故このような野菜を供えてるのかチョット疑問に思いました(゚▽゚;)アチャー!!

儀式の後、授与される”福笹”が本殿前に供えられています。。

本番を目の前にして、少々緊張気味の若い神主さん。


神主さんが本殿や大釜に向い祝詞の奏上や御祓いを行います。
そのあと、参拝者も御祓いをしてもらいます。


笛や笙などの雅楽の音色にあわせて巫女さんの登場です。
頭を飾っているのは紅白の梅です。


神様をお迎えするため、拝殿で四人の巫女さんが扇を手に祓神楽(はらえかぐら)を奉納します。


巫女さんが手にしている扇や鈴・幣・笹などは神様が依りつきやすい道具といわれています。


次は神楽鈴と笹を手にしての笹舞です。


舞が終わると、いよいよ湯立神楽も佳境になってきます。
白装束にたすき掛けの巫女さんが柄杓で天の水をすくって大釜のお湯に注ぎ入れる”杓取の儀”を行います。



塩を撒いてお釜を清めます。


沸き立つ大釜のお湯にお酒や洗米を入れます。


巫女さんが両手に持った笹をお湯に浸し、左右に勢いよく振ると、熱湯と湯気が弧を描いて迫力満点です!!


そして笹からも湯気が立ち昇ります。

巫女さんが笛や太鼓の音にあわせ、神憑りするかのように御幣舞を舞い、両手に笹の束を持ち、笹の葉で勢いよく釜の湯を参拝者にふりかけて邪気を祓い、無病息災・願望成就を祈ります。
この湯にかかれば無病息災のご利益にあづかることができます。



儀式終了後、「方災難除守(ほうさいなんよけまもり)」と“招福・無病息災”と記した短冊を結んだ「福笹」(¥800)が授与、持ち帰れば幸運に恵まれるといわれています。

巫女さんが釜に入れた残りの”塩とお米”を頂いて帰る人も沢山おられます。
<<おまけ>>
今日20日は大寒でしたが、二十日正月でもありました。
別名”骨正月”ともいいます。
昔は、商売をしている家では年末に食料を買いだめし、注連(しめ)のうちは商売を休みました。
その休みの間は買いだめした鮭やブリの切り身などを食べているうちに20日頃になると骨しか残っていないので、そのあらでだしを取り酒粕で野菜を煮いたことから”骨正月”という奇妙な名がつけられました。
鳥居に”天下無敵必勝利運”の額が かかる霊光殿天満宮は京都御所の西(上京区新町通今出川下ル)にあり「どんな願いも一心に祈願すれば叶えられる」という水晶やルチル顔負けのすごい神社です。
祭神は菅原道真と徳川家康です。

霊光殿天満宮は菅原義郷(道真の子孫)により建立されました。
神社の名前は道真が左遷され「東風吹かば匂起こせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」と詠んで都を旅立ったとき、天から一条の光とともに天一神・帝釈天が降臨し、”汝に罪はない。故に左遷されても落胆するな。三年後汝を天に召し、汝の敵を滅ぼそう”と告げたという伝説によりついたといわれています。

1281年に蒙古襲来があったがとき、夷賊退治の祈祷を行ったところ元の船がことごとく沈んだことにより、後宇多天皇より”天下無敵必勝利運”の額を賜りました。

名作と言われている狛犬は木製で十一の突起が躍動的な阿形の尻尾が見事で睨みをきかして本殿を守っています。


霊光殿天満宮の”おみくじ”は少し変わっています。
12種類のクジ軸のなかから出てきた軸の数を拝殿に掛かっている額から探します。
その額には”1から12”までの数字の下に吉やら凶などが書かれています。
普通の紙のおみくじなら大凶や凶がでたら境内の木に結べばいいのですが、このおみくじは紙でないのでそういうわけにはいきません。
どうすればいいんでしょうか(* ^)(◎o◎)オヨヨ
そう悪い結果が出たら甘んじて受け入れるしかないです、でも、ここ一番の勝負の時にはいいかも…☆^^




天神さんなのに、なぜ家康が祭神かというと家康が同社を深く信仰たことから後水尾天皇が家康の像を仙洞御所にお祀りになり、家康の死後、家康の像を移したことからで祭神となりました。


天神さんですから当然牛もいます。

京都ゑびす神社で8〜12日までの5日間「十日ゑびす大祭」が行われました。
8日 招福祭
9日 宵ゑびす祭
10日 十日ゑびす大祭(初ゑびす)
11日 残り福祭
12日 撤福祭
9,10日は夜通し24時間、ゑびす神社の門は開いています。

神社の由来は(京都ゑびす神社サイトより)・・・
京都ゑびす神社は西宮・大阪今宮神社と並んで日本三大ゑびすと称され、「えべっさん」の名で親しまれています。
その起源は約800年前土御門天皇の建仁2年(1202年)に禅の祖といわれる栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守として最初に建てられたものです。
今日多くの方はゑびす様と言えば「商売繁盛の笹」をイメージされますが、ゑびす信仰の象徴とも言える笹は元来京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったものです。
笹は縁起物の松竹梅の竹の葉で「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から家運隆昌、商売繁盛の象徴となりました。
ところで、京都・西宮(兵庫)・今宮(大阪)と3つの”えびす神社”がありますが、「えびす」の文字が違うのをご存知ですか?
京都は「ゑびす」または「恵美須」
今宮は「戎」
西宮は「えびす」
そして八坂神社にもある、えべっさんはは「蛭子」と書きます。

巫女さんが笹を持って舞い踊りお清めをします!!
この笹は”吉兆笹”といわれ、京都ゑびす神社が一番最初だといわれています。


お清めした吉兆笹に熊手や福鯛・宝船・蓬莱・福銭・大宝等、自分の気に入った縁起物をつけていきます。
でも、沢山つけると賑やかになり楽しいですがそれだけ料金がかかります。
でも縁起物とはいえ、ちょっとつけすぎました(●`ε´●)

皆が戸を叩いています。
何故、戸を叩いているかというと”この戸を叩いてお参りしてください”と書かれた貼紙があるからなんです。
何故、戸を叩いてお参りするのかというと・・・
ゑびす様は高齢のため耳が不自由なので軽く叩いて、”お参りに来ましたよ”と知らせるためなんだそうです。
京都のゑびすさんに行かれたときは戸を軽く叩いてお願い事をすれば、きっとご利益がありますよ(*^∇^*)ノ

ゑびすさん(神)の本当の名前は『八代事代主(言代主)大神・やえことしろぬしのおおかみ』といい、大国主大神の子供です。
そしてなんと、七福神の中で唯一の日本生まれの神様なんですよw(☆o☆)w オオー!


やっぱり、ありました!!
水晶を売っているお店(屋台)が!!
でも、かなり怪しげな雰囲気がプンプン..+'*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。.
結構なお値段でしたが、ブレスレットの石の変更をお願いしている人もいましたよ。

京都のゑびす神社でしか売られてい、「人気大よせ(にんきおおよせ)」。
この赤くて華やかな傘は傘の中には人が集まることから”人がたくさん集まり、商売繁盛”を願う縁起物といわれています。


ゑびす神社は京都の花街の一つである”宮川町”から一つ道を隔てたところにあります。

「蘇民将来子孫者也(そみんしょうらいのしそんなり)」と書かれた八角木守りは、災難除け・魔除け・家門繁栄の御神徳があると言われ、お正月に授かりお守りとして玄関に吊ったり、床に飾ったりして掲げられます。

(お守りの由来)
奈良時代につくられた備後風土記に八坂神社の御祭神・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の護神徳が載っていますが、それによりますと・・・
尊が南海に旅をされ一夜の宿を裕福な「巨旦将来」に宿を求めたが断られ、反対に貧乏な「蘇民将来」の家で歓待し泊めてくれた。
貧乏にもかかわらず親切に厚いもてなしてくれたことを大層喜んだ尊は「蘇民将来子孫者也」と書いたお守りを腰に付けていれば病にならないとお教えになり茅(ち)の輪と一緒に授けられた。
その後、村に疫病が流行し巨旦将来一家を含め村人全員が死亡したが、蘇民一家だけは「蘇民将来子孫也」の門標を掲げていた為無事であった。

その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来之子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祓」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来之子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与されます。
蘇民将来は、八坂神社境内にある疫神社(えきじんじゃ)の祭神になっています。

初詣、亥年ならやっぱりここに行かねばなるまい! いのしし神社!!
そぉ、護王神社(=^ー^)ノ彡☆゜・。・゜★
でも今年の干支がイノシシなので大変混雑していると話題となっていましたが、さすがに8日、それも夕方となるとガラガラでした。
昨年のblogにも書いてます ・・・ コチラ

神社に足を一歩踏み入れると、「狛犬」じゃなく「狛いのしし」がお出迎えしてくれます。
足腰の健康・病気怪我回復や子育て・子供の成長の御守護をしてくれる心優しきご祭神(和気清麻呂と和気広虫姫)がおまつりされています。

参拝した皆が鼻を撫でていきます。
そう、このイノシシの鼻を撫でると幸せになれると言われています。
鼻だけ色が変わってしまってます(゚▽゚;)アチャー!!


神社の沿革(護王神社サイトより)
護王神社は、はじめ洛西の高雄山神護寺の境内に和気清麻呂公の霊社として祀られていましたが、確かな創建年は伝えられていません。
古くから「護法善神」と称されていましたが、嘉永4年(1851)、孝明天皇は和気公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)、「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。
明治19年(1886)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門前の現在地に社殿を造営、姉君の和気広虫姫を合わせ祀り、御遷座されました。
その後、崇敬者により境内に霊猪像(狛いのしし)が奉納され、いのしし神社とも呼ばれ親しまれています。

もう一人のご祭神・和気広虫姫は清麻呂公のお姉さんで平安時代初期に活躍した女性。
戦乱でよって生じた多くの孤児を養育し、自分の養子として迎えるなどした大変慈悲深い人。
70歳で亡くなるまで、生涯を弱者の救済に当たったので、後に『子育明神』として信仰されるようになりました。

今年もありました、水晶のお守り(=^ー^)ノ彡☆゜・。・゜★

今日は朝から雪が降っていて、ニュースでは”雪の金閣寺”が何度も放映されていました。
我家の庭の七竈(ななかまど)にも、雪が積もっていました。
この”七竈”、材を竈に七回入れても燃えないで焼け残ることからこの名前になったといわれています。

雪のちらつく中、上賀茂神社の白馬節会に行ってきました。
この白馬節会は”中国古来の1月7日に青馬を見るとその年の邪気を祓うことができる”という故事に由来していて、神前に七草粥が供えられ祝詞(のりと)が奏上された後に、錦の馬着で正装した白い神馬が1頭を引き立てられて祭神の御覧を仰ぐ神事です。
当初は青みがかった馬を用いたため "あおうま" であったため、後に神事の馬が白馬に代わっても「白馬」を「あおうま」と読み、中国では馬は縁起の良い動物、青はおめでたい新春の色といわれています。

上賀茂神社の正式名称は”賀茂別雷神社:かもわけいかづちじんじゃ”といい、世界文化遺産に登録されています。
★立砂と細殿(重文)
円錐形の麗しい御神体山である神山をかたちどった一対の立砂。
一種の神籬(ひもろぎ:神様が降りられる憑代(よりしろ))で、鬼門や裏鬼門に”清めの砂”を撒くのはこの立砂の信仰が起源といわれています。

そして上賀茂神社といえば”楼門(重文)”で、この内側が上賀茂神社の御神域の中心部です。
有料・予約制ですが、普段見ることができない国宝の「本殿」や「権殿」に参拝やご神宝も拝観することができます。

土舎(重文)は1628年(寛永五年)に造り替えられたものです。

帰りに和菓子屋によって京都ではお正月に食べる伝統の御菓子である”花びら餅(菱葩餅)”を買って帰りました(*^∇^*)ノ
柔らかい求肥で京都のお雑煮に見立てた白味噌のあんこと牛蒡(ごぼう)を包んである御菓子で、透明感あるピンク色が新春を連想させます。
求肥から飛び出している細長いのが牛蒡です☆彡
花びら餅とは(Wikipediaより)・・・
ごぼうと白味噌餡とピンク色の餅を、餅もしくは求肥で包んだ和菓子。
当初はごぼうが2 本であったが、現在では1 本のものが主流である。
平安時代の新年行事「歯固めの儀式」を簡略化したもので、600 年も宮中のおせち料理の一つと考えられてきた。
歯固めの儀式では長寿を願い、餅の上に赤い菱餅を敷き、その上に猪や大根、鮎の塩漬け、瓜などをのせて食べていたが、だんだん簡略化され、餅の中に食品を包んだもの(宮中雑煮とよばれた)を、公家に配るようになり、さらには鮎はごぼうに、雑煮は餅と味噌餡を模したものとなった。
宮中に菓子を納めていた川端道喜が作っていた。
明治時代に裏千家家元十一世玄々斎が初釜のときに使うことを許可され、新年のお菓子として使われるようになり、全国の和菓子屋でも作られるようになった。

家に帰ってから、抹茶と一緒に頂きました。
なんとも言えない”やさしい”味がし、冷え切った身体に春を一瞬感じました..+'*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。.

大福梅・・・
招福息災を願って服用するお正月の縁起物で古来より毎年12月になると北野梅林で採集・調整された梅干を裏白と共に授与されます。
大福梅は普通の梅干ではなくカラカラに干し上げられたものです。
お正月元旦の朝に祝儀としてお茶(白湯)に入れて飲みます(元旦に服することを王服(おおふく)といいます)。

由緒書では、起源は村上天皇の天暦5年(951年)に疫病が流行し、”天皇御脳(*1)にかかり給いしが、この茶を服し給えば御脳たち所に平癒す。これより王服(おおふく)と称して毎年元旦にこの茶を服し給い、萬民これを倣い年中の疫病邪気を除き長寿幸福を得るなり”(「都名所図絵雑談抄」)と伝えられています。
俳句の季題に・・ 大服や一歳越の泊り釜 (魚赤) とあり、大福とは吉字をあてたものです。

この大福梅は1袋(約6粒入り) 500円で12月13日から無くなるまで授与されます。

北野天満宮には約2,000本の梅があり、早咲きの梅は1月初旬には咲き始め、2月中旬から3月初旬までが最も美しい時です(梅苑は例年2月初旬から公開されます)。
*撤饌 :神様からのお下がり
*1 御脳:幼少期にかかる脳膜炎といわれています
西洋のイルミネーションもそろそろ飽きてきたので”和”のイルミネーションです(*^∇^*)ノ
京都の嵯峨・嵐山一帯で18日まで開催されていた”嵐山花灯路”。
渡月橋や竹林の小路一帯のライトアップをメインに南は阪急・嵐山駅から北は大覚寺(大沢池)までの広範囲行われていました。

竹林の小径は人の切れ間がないくらいの大混雑なので素通りし、少し離れた大覚寺にだけ行ってきました。
ここは人も少なく、毎年ゆっくりと見ることが出来ます。

12月なのにまだ、紅葉が綺麗でした(*^∇^*)ノ

京都嵯峨芸術大学の学生が企画した、光インスタレーションの一つ。
河の上を光が舞う”Floating matter”。

そして大沢池といえば今年もコレ!!
灯りの風物詩、巨大行灯・・・大覚寺や大沢池を幻想的に照らし出します..+'*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。.

朱塗りの端正な姿が美しい、多宝塔もライトアップされています。
大沢池に写った多宝塔は炎上しているようです。

多宝塔は嵯峨天皇心経写経1150年を記念して1967年に建立されました。
この多宝塔は木造ではありません。
鉄筋コンクリートで出来ています(゚▽゚;)アチャー!!

愛嬌ある顔をしている、てるてる坊主???

カメラを向けると、喜んで飛び跳ねていました。
ウレシイ(__)ノ彡_☆バンバン!!

池の畔には”カッパ”もいて、観光客を驚かせています\(>。<)/ギャ-

闇に出現する”光の路”。
「和」を基調とした灯りと花で飾られた、京都嵐山花灯路は今年で2年目。
竹林の小径は昨年以上の人出で賑わっていました。
クリスマス・イルミネーションも綺麗ですが、ルッチーにはこちらの方が心が落ち着きます♪〜( ̄。 ̄)

京都ノーザンチャーチ北山教会の帰りに立ち寄った聖ピエトロ教会。
現在はマリアグレース北山貴賓館としてウェディングなどのゲストハウスとして利用されています。

「聖ピエトロ教会」はイタリアの寺院から名前を授かったそうです。

ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の”真実の口”を模した円盤装飾。
嘘つきは海神トリトーネにかまれ、手が抜けなくなると言われています。

中世ヨーロッパの街にトリップしたような異国情緒たっぷりの雰囲気はとても京都とは思えません!!


北山ウェディングストリートにある、白い石壁が印象的な緑に囲まれた京都ノーザンチャーチ北山教会のイルミネーションを見に行ってきました。
北山通り界隈は京都の中でお洒落なお店が多いエリアで、記念撮影のロケーションとしても人気が高い教会です。

今年はシャンパンゴールドとホワイトをテーマカラーに、約1万個のイルミネーションで飾られた教会は大変幻想的で綺麗です!!

12月22日には賛同イベント100万人のキャンドルナイト、12月24日には特別礼拝が行われます。

バージンロードは15mあります。

記念写真に絶好のポイント、ミセス・マッコリーズ・チェア(シドニー)を思い出してしまいました(゚▽゚;)アチャー!!

聖なるベルに願いをこめて・・・
あなたの願いをベルに書き、ツリーに飾ってください。
12月24日、クリスマス礼拝にて願いが叶うよう、牧師が祈りを捧げ、あなたの想いを神に届けます。
でも、仏教徒のルッチーはお願いをすることなくベルだけを頂いてきました(●`ε´●)

フロントガーデンに大きなツリーがありカップル達が仲良くベルをつけています。
「ここで結婚式がしたい」とか、書いているんでしょうか・・・

教会の横にある東屋も綺麗にデコレーションされています。

今年で6回目を迎える新風館のイルミネーション・・・「〜光の街〜 Lighting-City SHIN-PUH-KAN」

4万個のイルミネーションでライトアップされ、赤や緑・金のカーテンで飾られた、中庭Re-Cueホールはディズニーランドのようです。


ヨーロッパから来日した「IN VOGUE」などによる「光の街の音楽会」が催されるステージ。

新風館の大階段は星空に続く、”Shin-Puh Milky Way”に! 光り輝いています!!
この新風館は大正15年に電話交換オペレーションセンターとして生まれた洋館を情報発信型ファッションビルとして2001年にオープンしたものです。
外観は当時のままです。

烏丸下立売(からすま・しもだちうり)を西に入ったところにある(簡単にいうと京都御所の西)、平安女学院(中学校&高等学校)のイルミネーションです。

約8万球の発光ダイオードで綺麗に装飾されたイルミネーションは幻想的な世界をかもし出しています。
今年のテーマは、「星月夜」だそうです。

青いクリスマスツリー(ピース・ツリー)は手作りで、ペットボトルで作られていました!!
ペットボトルの表面には「戦争がなくなりますように」「笑顔でいられますように」などのメッセージが書かれています。

ほとんどのイルミネーションがクリスマスで終わってしまうのですが、アグネス・イルミネーションは来年の1月15日まで行われています(点灯時間は16時30分〜22時)。
京都に初詣に来た帰りに、見ることも出来ますよ(*^∇^*)ノ

ロームのような大規模なイルミネーションではないですが、人も多くなく落ち着いてゆっくり見ることが出来ました。
個人的にはロームよりこちらのイルミネーションが好きです。

今年も京都の冬の風物詩・ロームのクリスマスイルミネーションに行ってきました!

今年は57万個の電球を使用(昨年は48万個)し、イルミネーションがパワーアップしました!!

五条通りと佐井通りの交差点にあるイルミネーションのシンボルツリーのヤマモモ(10m)は、白色LEDが3万5千個使用されています。

冬の夜を明るく照らすファンタジーな空間。

イルミネーションは22:30までです。
22:30になると何の前触れもアナウンスもなく瞬時にイルミネーションが消えてしまいます。
周りにいた人たちは、一同「アッ、エッ!!・・・」です。
幻想的な世界から一瞬で現実の世界に引き戻されます。
車折神社に”芽の輪くぐり”に行ってきました。

芽の輪くぐりとは茅(ちがや)で作った輪をくぐる行事を行います。

車折神社では、6月1日から6月30日まで行われています。
我が国に古来より伝わる「大祓の神事」は、毎年6月と12月の晦日の両度に、宮中を始めとして全国の神社において絶え間なく斎行されて来た儀式です。

人々は生活して行く上に知らず知らずのうちに罪、けがれを犯しているものであり、これをすがすがしく祓い清め、肉体も心も「明き清き正しき誠の心」に帰って健康で明るく正しい生活を続け、新しい生活への家内安全、無事息災を祈り種々の災厄を除くために芽の輪くぐりを神事として広く行い祖先より受け継がれてきた儀式です。
このように古くから日本人は、常に生活の中に祓い清めるという意識を持ち続けて、言い換えれば、自己反省をし、明日への力強い精進の糧としたと言えます。

6月30日の大祓式には、夏のうだる暑さ、やけつく暑さに堪えて、ひと夏を元気で過ごせますよう、疫病を免れますようにと、お祈りしながら、境内の芽の輪を自らくぐり、身を清め、家内安全、無病息災をお祈りします。
12月31日の大祓式には、新しい年をを迎えるにあたり過去の穢れを祓い、身を清め、家内安全、無病息災をお祈りします。
この大祓に、人形(ひとかた)・形代(かたしろ)・撫物(なでもの)と言って、紙を人の形に切り抜いたものに自身の名前を記し、息を吹きかけて神社に差し出し、一緒に祓ってもらう風習がありますが、息を吹きかけるのは自分の穢れをそれに移すためで、人形を我が身の代わりとして清めてもらうと言う意味につながります。

車折神社の謂れなどはこちら
京都の三大祭(祇園祭、時代祭り、葵祭)の一つである葵祭を見に行ってきました。
席は建礼門の前の一番前で、平安絵巻行列がよく見える最高の席でした。

葵祭は下鴨神社と上賀茂神社の例祭で、平安時代以来、国家的な行事として行われたため王朝風俗の優雅な伝統がしのばれる祭りです。
平安時代は”賀茂祭”と言われていましたが、一時中断され、江戸時代(元禄年代)に再興され、御所車・勅使から牛馬にいたるすべてに葵の葉が飾られたため”葵祭”と呼ばれるようになりました。

平安時代の装束をまとった総勢約500名、馬36頭、牛4頭、牛車(ぎっしゃ)2基の行列は先頭から最後尾まで約1kmにおよび、京都御所を出発した行列は市内を練り歩き下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かいます。
牛車
俗に御所車と言われ、平安朝以来乗用車として用いられていました。
軒または腰に藤花・杜若・紅梅・白梅などの風流を飾りつけ車輪の音を軋ませながらゆっくりと進み様は優雅です。

斎王代
斎王とは平安時代に内親王が選ばれて祭りに奉仕したもので、現在は在京の未婚の女性から選ばれ斎王代と呼ばれています。

風流傘
大きな傘に紺布を張り、これに錦の帽額総(もこうふさ)などをかけわたし、様々な造花で飾ってあります。







そしてランチは畳の和室で頂く、イタリアンでした。





西福寺(浄土宗の寺院)

空海が当地に辻堂を建て、自作の地蔵尊をまつったのがこのお寺の起こりです。

この地蔵は六波羅地蔵といい、檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)が皇子正良親王(仁明天皇)の病気平癒を祈願して以来、子育て地蔵としても信仰されていて、 「末廣不動王」さんの赤い提灯がぶら下がっています。

六道の辻地蔵尊の御詠歌として壇林皇后の御歌が一首残されています。
はかなしや 朝夕なでし黒髪も よもぎが本のちりとこそなれ
このお地蔵さまは、魂を此の世から彼の世の極楽へ送って行ったり、迎えに行ったりする大役がありましたので、庶民の厚き信仰とあたたかき結縁により幾多の変遷と星霜に耐えて今日まで守り伝えられてきた有り難い仏さまです。

大きな石と不動明王さま

祠なかには石仏があり、お人形やほ乳瓶などがお供えされていました。

8月7日〜10日六道珍皇寺では「六道詣り」が行われ、その時西福寺では、「六道十界図や六道絵」が公開され絵解きも行われます。


円福地蔵

六道の辻
ここは「6つの道」、すなわち人間の生前の善悪の行いによって導かれる冥界「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」という世界へ通じる道がここに集まっています。

この辺りは古くから葬送の地であった鳥辺山の麓にあって、あの世とこの世の境域と考えられ名づけられました。
そして、昔は人骨が多数出土したため「髑髏(どくろ)町」と呼ばれていました。
今は轆轤(ろくろ)町と改名されています。
ちなみに六道とは人間の生前の善悪の行いによって導かれる冥界とされ、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄のことである。
この季節、京都の桜の名所はどこに行っても観光客で一杯です。
でも地元には観光客が滅多に来ない穴場的な桜の綺麗なところがあります。
自宅から車で10分ほどのところにある宇多野方面。
少し西に行くと桜守で有名な佐野藤右衛門邸の桜や広沢の池などは観光客で一杯ですがここはひっそりしていてゆっくりと桜を眺めることができます。
まずは宇多野ユースホステルへ。

宇多野ユースホステルでは、4月1日〜10日の午前10:00〜午後3:00の間、桜の庭園一般公開をされています。

枝垂桜や染井吉野など約80本の桜があり、時折小鳥のさえずりが聞こえる自然の中にいるととても気持ちがいいです。



次はユースホステルの裏にあるお寺へ。

ここでまた、変わったものを発見しました。
狛犬ならぬ狛鶏です。
これは以前の「いのしし」より驚きです。

最後は国立宇多野病院です。

病院の庭には約80種類の桜の木があり入院患者さんの心を和ませています。
写真は紅八重枝垂れ桜です(上、下とも)。

くるまおれ神社ではありません。くるまざき神社です。

車折神社の名前は鎌倉時代の後嵯峨天皇の御幸の際、社の前で車の轅(ながえ・車をひく棒)が折れて「車折大明神」の神号と正一位が贈られたという由緒ある神社です。

祈念神石
商売繁盛と売掛金回収にご利益があることで知られ、神石祈願の社としても知られています。
祈願成就によって返納された神石が本殿前に高く積み上げられています。

祈願神石を授かり、神前において心から 願い事をこめ、自家に持ち帰り、朝夕願い事を続け、成就の上は自家の付近の石を一個拾い洗い清めて御礼の旨をしたため、先に授かった祈願神石に添えて神前に奉納します。
小石の山の大きさから、神社のご利益の高さがうかがい知ることができます。
芸能神社

境内にある芸能神社は全国でも珍しい芸能の神を祀っています。
各界の芸能人が自ら参詣に訪れその名が記された玉垣約2000枚がずらりと並んでいます。





まだまだ、一杯の芸能人の玉垣があります。
初穂料:¥8,500(2年間)
そして神社にはシールなどを貼らないようにとの注意書きがあるのですが・・・

細川たかしや五木ひろしのシールまでが貼られています。

使い終わった、道具類を収めます。

河津桜
早咲きで有名な桜です。濃いピンク色の花が咲きます。


渓仙(けいせん)桜


清めの社

辰巳稲荷神社



西国第十七番 補陀洛山 六波羅蜜寺(ふだらくさん ろくはらみつじ) は天暦5年(951年)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所です。
当時京の都に疫病が流行したため空也上人は自ら十一面観音像をつくり、御仏を車に安置して市中を曵き回り、小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えるとたちまち悪疫が鎮められたといわれてます。(現在も皇服茶として伝わり、正月の三日間授与されています)

六波羅蜜寺は町の中にあり、京都のお寺としては規模も小さく山門もありません。
この門は本堂の正面にある門で最近新たに作られたもので山門という感じはしません。
この門は通常閉められていて入り口はこの門の南側にあります。

本堂(左下)は重要文化財に指定されていて、現存の本堂は貞治2年(1363年)に建てられました。
明治以後荒廃していましたが昭和44年(1969年)に解体修理されました。


本堂の内陣に空也上人自身が刻んだと伝えられている本尊、「十一面観世音菩薩(国宝)」が安置されいます。本尊は秘仏で12年毎の辰年に開扉されます。

阿古屋塚(右)
この塚はかつて五条坂に住んでいた遊女「阿古屋」の菩提を弔うために鎌倉時代に建てられたもので、下の台は石棺の石蓋といわれています。
阿古屋については浄瑠璃・壇ノ浦兜軍記三段目『阿古屋の琴責め』で語られています・・・・・
「平家の残党である景清の行方を探すため、代官畠山重忠は景清の恋人である遊女阿古屋を捕らえる。阿古屋は景清の所在を知っていたが、阿古屋が弾かせられた三味線や琴の調べに一点の乱れもなかったことに畠山重忠は感動し、彼女は釈放される。」
平清盛塚(左)
平安時代後期に平忠盛の軍勢が当寺内の塔頭にとどまって以来、清盛、重盛の代には平家一門の館が数多く建てられたといわれており、寿永2年(1183年)の平家没落まで繁栄が続いたとされています。

一願石と縁結び観音
祈りをこめて、金文字から手前に三回まわします。

金運・徳運が湧く「淵龍の御符」
康保未年(967)の頃、当時門前池を栖処とする龍が人々を悩まし苦しめたので、開創空也上人が”毒獣・毒龍の類と謂も錫杖の音を聞けば菩提心を発するものぞ”と諭されると、たちまち改悛した龍は当寺の守護と参拝者の七難即滅・七福即生とくに御篤信様の金運不断をご本尊に誓願しました。
その龍頭は今も当寺に祀られています。
御符は十二年周期の辰年毎のご開帳には、黄・緑・紫・・と改まり五色五体のご符が授与されます。

空也上人伝承 悪病除御符

六波羅蜜とは(六波羅蜜寺のしおりより)
この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための六つの修行をいいます。
波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ることです。
布 施
見返りを求めない応分の施しをさせていただく事をいいます。貪欲の気持ちを抑えて、完全な恵みを施すことです。布施行は物質だけではありません。
持 戒
道徳・法律等は人が作り現在はますます複雑になっています。私たちは高度な常識を持ち、瞬時瞬時に自らを戒める事が肝要です。
忍 辱
如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶことが出来れば苦痛の多い現代社会において、自らが他の存在に生かされていることがわかり、全ての人の心を我が心とする仏様の慈悲に通じることとなります。
精 進
不断の努力をいいます。我々人の生命は限りがあります。ひとときも無駄にすることなく日々誠心誠意尽くすことです。
禅 定
冷静に第三者の立場で自分自身を見つめることをいいます。
智 慧
我々は本来仏様の智慧を頂戴してこの世に生をうけております。しかし、貪りや怒り愚痴によってその大切な智慧を曇らせてしまいがちです。布施・持戒・忍辱・精進・禅定の修行を実践しどちらにもかたよらない中道を歩み、此の岸から彼に岸へ・・・。



御詠歌 重くとも五つの罪はよもあらじ六波羅堂へ参る身なれば
花山天皇が御落飾ののち、西国三十三所霊場を御巡錫になり各霊場に下された御製が現在も御詠歌として奉詠されています。
その意味は例え五つの大罪、五逆罪
一つには父を殺し、
二つには母を殺し、
三つには聖を殺し、
四つには平和を擾す、
五つには仏の身より血を流す
を犯した者でも、御観音様と御縁を結び今後は六つの波羅密を日々実践する事により罪は消えて行くであろうと云う御心が当山の御詠歌と成っています。
開山空也上人は「彼を先とし、吾を後とする情を情とする」と説かれました。
即ち無限に変化して行く過程の中で瞬時のためらいも停止も許されない厳しさで六波羅密の行動を教えておられるのです。
円満な人格となり、日々悔を残さず、幸せな充実した人生を送りたいものです。(六波羅密寺しおりより)

空也上人立像 鎌倉時代(重要文化財)
運慶の四男康勝の作。胸に金鼓を、右手に撞木を、左手に鹿の杖をつき、膝を露に草鞋をはき、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承のままに洗練された写実彫刻である。(六波羅蜜寺より)
銭洗い弁天
ざるにお金を入れて、金運財運を祈念してお金を洗います。
洗ったお金の一部はお賽銭として納め、残ったお金は財布に入れておきます。



拝観料・・・無料(宝物館500円) 拝観時間・・・8:00〜17:00
仕事で産寧坂まで行った帰り、何やら清水寺の方から”法螺貝”の音が聞こえてきました。

行って見ると青龍会が行われていました。
青龍会は、法螺貝を吹き先布令を行う「転法衆」を先頭に、行道を指揮する「会奉行」、そして観音加持を行う「夜叉神」、さらに「四天王」が龍の前後を守護し、『南無観……』を唱える「十六善神」の神々が続くという大群会行の行道です。
東に流水のある所を−青龍、南に窪地−朱雀、西に大道−白虎、北に丘−玄武とする四神相応(しじんそうおう)の考え方が京都には深く根ざしています。

東山山系「青龍」の地に清水寺は位置します。
清水の涌きあふれる音羽の滝に、観音様の化身である龍が夜ごと飛来して水を飲む...との伝えが清水寺に古くからあります。
さらに本堂の東方に位置する奥乃院の回廊南軒下にある祠に夜叉神が祀られています。
この夜叉神は青龍の地を守り、清水寺の本尊の守護と共に、京の都を昼夜休みなく警戒し、人々の悪縁を断ち芳縁を結ぶ神として都の人々に信仰・畏怖されてきました。
清水寺創建千二百有余年、御本尊御開帳の年・平成十二年三月三日にあたり、ここ青龍の地に、音羽の滝の故事、夜叉神への畏怖が結びつき、人々の安寧を祈願する青龍会(せいりゅうえ)を結成、観音の化身である青龍の誕生とその開眼の法要が執り行われました。(パンフより)



夜叉神 (やしゃじん) は参拝者に「八功徳水(はちくどくすい)」を振りまき、参拝者は厄除・招福を祈願して合掌します。
舞妓さんは変身体験の観光客です。

西門で勢揃いした後は、清水寺から門前町を練り歩き、ふたたび戻ってきます。

門前町の土産物屋に凄い勢いで突入し、店内を一周してまた出てきます。右が突入した時の写真です。

青龍会の行道を参拝される方、十六善神の唱える『南無観……』に唱和される方、観音加持の「八功徳水」の法水を身に受ける方々……。おひとりおひとりのご幸福をお祈りいたします。 合掌
★青龍は八千余枚の鱗を持ち、その一枚一枚に経文の書かれた和紙が張られています。
◆ 平成18年青龍会行道日 3月15・16・17日、4月3日、9月15・16・17日 午後2時より ◆